○肉体のある内は、霊界の美しさは分からない。かの世界の光・色・風景・木・鳥・川・山・花、その美しさを皆さんはまだ知らない。だから死を恐れる。

○死が恐ろしい顔で人の心を脅かす。だが死んで初めて人は真に生き始めるのだ。今貴方は生きている、しかし本当は死んでいると言っても過言ではない。然り、多くの人は、霊的事物に対しては、死者も同然だ。か細い生命力が、弱々しい肉体の中で、明滅している。だが霊的なことには、何の反応も示さないのだ。だが地上では、徐々に霊力が力を増していく。そうして暗黒が次第に後退していく。

○霊界を地上と比べれば、その差は筆舌に尽くし難いものがある。いわゆる死者である私達は、皆さんと比べれば、生命について遙かに多くのことを知っている。

○ここに来て、芸術家の夢は現実となる。画家と詩人の夢想が現実となって現れる。天才は自在の表現力が発揮出来る。地上の束縛は消滅し、天賦の才と持ち味が、互いに助け合いつつ遺憾なく発揮される。
 ここでは、気持を表現するのに、言葉などという不便なものはいらない。思想、これが生きた言葉であって、電光石火の速さでそれは伝わる。

○ここには、私達を悩ませるお金等は無い。争いもなければ、弱い者苛めもない。ここで強者とは、自分より不幸な者へ、何か与えてやれるものを持っている者のことである。
 ここには失業がない。貧民街もない。どんな利己主義も存在しない。ここには派閥というものは一切なく、私達は唯一つの宗教をもっているだけだ。私達には一冊の教典もない。唯神法の働きがあるだけで、それが私達を導いている。

○死ぬことは悲しいことではない。地上で生きること、それこそ悲劇である。
 利己主義と強欲と貪欲の雑草が生い茂り、まさに息絶えそうな神の国を見ること、それこそ悲劇である。

○地上には、霊界の輝きの一片だに、絵に描き得た画家は一人もいない。又音をもって、この輝きを少しでも奏で得た音楽家は、一人もいない。更には言葉をもって、その美の欠片すら、表現し得た作家は一人もいない。

○今は五月、地上も今は美しい季節、辺り一面、神の御業が世を飾っている。しかし今皆さんが見ているものは、霊界の美のほんの影法師にすぎない。ここには、皆さんが夢想だに出来ない、美しい花や木や鳥や山や小川がある。いつの日か、皆さんもこの美しさを味わう時が来よう。そう、皆さんは幽霊になるわけだが、しかし、それこそまさに、皆さんの真実の存在であるのだ。

○皆さんは霊界に来ているのだが、そのことを少しも覚えていない。毎晩のように、皆さんはこちらの世界を訪問している。これは将来の準備の為だ。こうしておかなければ、死後霊界生活を始めるに当たって、大きなショックを受けるだろう。さて、皆さんは死後こちらの世界へ来ると、初めて生前訪問の記憶を思い出す。

○(問)死後、低い境涯に行く霊魂の状況はどうでしょう。彼等は睡眠中の訪問-恐らくは低い世界-を思い出しますか。又その記憶のお蔭で、自分の状況が良くなることがありますか。
(答)低い世界へ堕ちる霊魂は、生前睡眠中に行った世界へ行くのである。だが、その記憶があっても、自分の今の実状を理解するのには役に立たない。というのは、彼等の置かれたその世界は、大変現世の姿に似ているからである。他界は低い世界程、その外観が現世に似ている。それは波長が鈍重だからだ。高い世界に行く程、その波長は漸次精妙となる。

○(問)私達は目が覚めてから、睡眠中の他界訪問を思い出すことがありますか。
(答)皆さんの霊が肉体から離脱している時は、脳という現世的束縛から自由になっているわけだ。本人の進歩の程度にもよるが、そういう場合は、本人の意識は他界の波長で経験を重ねながら、その意識をちゃんと持っている。但し一旦霊が肉体に戻り、睡眠中の霊の経験を記憶に呼び戻そうとすると、これは上手くいかない。つまり脳と霊とでは、器の大きさが違うからだ。小さな脳は大きな霊の経験を受け入れることが出来ず、記憶を歪めてしまう。
 これは丁度、小さな袋の中に、多くの物を押し込もうとしているようなものだ。袋にはほんの少ししか入らない。だから皆さんはこれを押し込もうとする、すると物は姿形がまるで違ったものになってしまう。眠りから覚める時の状態は上記のようだ。
 しかしながら、本人の魂が向上していて、意識の程度も進んでいれば、霊界のことが分かっている。だからこの場合は、脳を訓練すれば、容易に記憶を残しておくことが出来る。
 私は皆さんと話をしたり、あちこち霊界の案内をしてあげた。そして「現界へ帰っても、忘れてはいけないよ」と言ってあげるのだが、皆さんはそんなことは、すっかり忘れてしまっている。

○(問)睡眠中の他界訪問は、それはそれなりに積極的な意味があるのですか。それとも、それは単に死後の生活の準備にすぎないのですか。
(答)睡眠中に手助けをしてあげられる人々が沢山いる。だから皆さんの中にも、こういう仕事を睡眠中にやっている人達もいる。だが一般的には、これは準備の為である。皆さんは色々な場所へ連れて行かれる。それは死後の準備として役立つからだ。もしこうしておかなければ、現界から他界と、全く事情の違った世界へ入って来た時、ショックが大きすぎて、永い間それから立ち直れなくなるから。

○予備知識のある者は、他界へ入るのも容易、これがなければ、慣れるまで長期にわたり、眠って休まねばならない。これは丁度、戸を開けて戸外の陽光の中へ出るようなもので、それには光に慣れる必要があるということだ。
 この世でもあの世でも何ものも失われることはない。人の心から放たれる奉仕への念・行為・欲求・その一つ一つは必ずどこかで誰かの役に立つ。もし貴方がその念をもてば、必ず貴方の傍に、貴方を助ける者達が近付いて来る。

○(問)もし、ある人が死後のことを何も知らずに死んだ場合、その人は私達の思念に反応を示したり、その意味を理解したりしますか。
(答)死後の目覚めは、自分の死の自覚から始まる。だから、死後についての知識をもっていれば、それだけ早く目覚めが来る。死についての無知・誤解・迷信や歪められた教義・神学、これらは何としても打開せねばならない。これらは死後の生活にとり何の役にも立たない。又こういう誤解を解くには、魂は永い時間かけて、まずもって新世界に慣れる必要がある。だからういう魂は、長期間にわたり休憩の状態に入る。
 地上には、病者や怪我人の為に病院がある。そのように私達も、傷ついたり弱った魂の為に世話をしてやらねばならない。しかし地上で大きな奉仕や愛に身を捧げた人は、死と共にその人への善意や愛情や祈りが、霊界にまで伴い入って来て、その波長が本人を助けるので、魂の目覚めは早められる。

○(問)霊魂不滅を認めないで、死が全ての終わりと信じている人が死んだ場合、どうなりますか。
(答)彼とても死によって一切が終わるわけではない。又その思想は大自然の事実と反しているのだから、いつか目を覚ました時、死の事実と直面せねばならない。
 さて、その目覚めにどれ位の時間がかかるか、これは、本人の魂の進歩の程度いかんによる。

○(問)上記のような人の死には、困難が伴いますか。
(答)それは本人の魂の進歩いかんによる。概して現世から他界への移行には困難はない。一般的には死につつある人に意識はなく、無意識の内に他界へ移行する。この移行を意識に留める者は進歩した魂のみである。

○(問)もしその人が善人であって、しかも死後の生存を信じていないとすれば、そのことの為に何か苦しみを受けることがありますか。
(答)善とか悪とか、私にはその言葉の意味は分からない。しかし質問の件については、本人の送った生活いかん、即ち本人が尽くした他への奉仕いかん、内在の神性の発揮にどれ程機会を生かしたか、唯これだけが問題である。勿論、死後存続については、知らないより知っている方がよろしい。だが何といっても一番の眼目は、毎日どんな生活を送ったか、これである。

○(問)愛し合っている二人は霊界に入ってから、再び一緒になりますか。又若返りますか。イエスはあの世には結婚はないと言っていますが。
(答)男と女が互いに愛し合い、その愛は一身同体のようであり、現界に在りながら同じ霊界に住んでいるような二人なら、死によっても二人は離れることはない。かえって死によって魂は自由となり、物質界にいた時よりも、更に緊密に一つとなるのである。
 しかし二人の結び付きが、魂のそれでなく、肉体だけの結婚で、霊的には別の世界に住んでいたものなら、死によって二人は離れ離れとなり、それぞれ固有の霊的世界へ入って行くのである。
 イエスがあの世には婚姻はないと言ったのは、肉体の結婚をさして言ったので、魂の結婚のことではなかった。男があり女がある、これはお互いがお互いに役立つからである。女は男に、男は女に必要である。神は、男女二つの原理をもって、完全なものとなし給うた。人が霊界で進歩するに従い、両者の相違は段々なくなっていく。

○(問)他界で罪を犯すことがありますか。他界では、一般にどんなことを罪というのですか。
(答)勿論、罪を犯すことはある。霊界での罪とは、利己主義の罪である。唯地上と違うところは、その罪がすぐ露見するということだ。心に罪を抱けばその途端にそれがばれてしまい、その結果がたちまち現れること、地上世界とは比較にならない。罪の結果は本人に記され、その為本人は霊的に低下する。

○(問)肉体を離脱して後、人が霊の世界でまとう媒体は、肉体程に固く、かつ真実なものですか。
(答)肉体より遙かに真実で堅固である。地上とはいささかも実体をもった世界ではない、それは霊界の投影にすぎない。霊界こそは本当の世界、だが霊界に入ってみなければ、このことは理解出来ないだろう。

○(問)物質界が私達の目に映るように、霊的な目には、霊界は自然であり、かつ物体のように見えるのですか。
(答)それは遙かに実体をもったものに見える。皆さんは、現在いわば囚人である。貴方の周囲には、肉体という壁がそびえ立ち、貴方を閉じ込めている。だから、貴方は本当の自分というものは、ほんの僅かしか発揮していないのだ。

○(問)霊界では、心と心で意思を通じ合うのですか。それとも言葉を使うのですか。
(答)言葉を使わずに話が出来るようになるまでは、言葉を使う。

○(問)死の時、息が実際に止まった時、どんな事が起こるのですか。
(答)もし魂の意識がはっきりしていれば、幽体が次第に脱け出ていくのが見える。次いで、ふと自分が霊の世界にいることに気付く。そこで、彼は自分を迎えに来てくれた霊達の存在に気付く。これは新生活を始めるに当たって、中々役立つことなのである。もし死の時、魂が意識を失っていれば、助けられながら死の関門を通過し、必要な所へ-それは病院であったり、憩いの家であったり-連れて行かれ、そこで、新生活を自覚する為の準備を受けるのである。

○(問)私達が死んで霊の世界に入ると、故人となった親戚の者達に会うのですか。
(答)もしお互いに愛情があれば会うし、なければ会うことはない。

○(問)貴方達霊魂が住んでいる霊界の境域は、地球とか太陽とか遊星とかを、取り囲んでいるのですか。
(答)いや、そういうものではない。霊界の境域とは、こことかそことかの、場所的な境界をもつものではない。又、球体とか星とかという形をとって在るものではない。それは広大な宇宙の部分、しかもあらゆる世界のあらゆる生命と、交じり合い浸透し合ったものである。皆さんはこれらの霊的世界の幾つかを知っている。しかしまだ知らない世界が色々ある。何となれば、宇宙にはまだ皆さんには分かっていない生命が生存する星が、沢山あるからである。

○(問)霊魂の移動する速さには、制約がありますか。
(答)私達霊魂の移動には、時間と空間の制約はない。霊界に生きている者にとって、限界というものは何一つない。私達は地上世界のどこへでも、思念と同じ速さで移動出来る。しかもそれは思念の移動でなく、実体そのものの移動なのだ。唯霊的進歩の段階に応じた制約というものはある。つまり、その段階を超えて上へ行くことは出来ない。つまり、自分の人格の占める位置より、上の霊界へ行くことは出来ない。制約といえばこれであるが、しかしこの制約も、霊魂の霊的生活上の制約ということである。

○(問)生物が住んでいる星には、地球の霊界とは別の霊界があるのですか。
(答)皆さんのいわゆる霊界とは、あらゆる星のあらゆる生命を包含する、宇宙の霊的な表現にすぎない。

○(問)では、霊界とは唯一つのものがあるだけですか。
(答)そうだ。しかしその一つの霊界が無数の霊界となって現れている。地球の物質界と同じように、地球以外の星も、それぞれ霊界で囲まれている。つまり、これらの星も、物質的表現だけでなく、霊的な表現をもつものであるから。

○(問)それら霊界の間には、いわば地理的な境界がありますか。
(答)地理的なものはない。だが、精神的な範囲という意味では境界がある。しかもその境界はある程度まで、その星の物質界の影響を示すものである。
(問)その境界とは、いわゆる天体と天体との間の境界のようなものですか。
(答)そうだ、地上生活の影響を超えて霊が進歩する迄は、当分の間、霊界にもそういう境界があるというわけだ。

○(問)死刑執行人は他界に入って、どんな裁きを受けますか。
(答)もし、本人がこれはいけないことだと知っていれば、知っているが故の罪に対する罰を受けねばならない。又これを知らなければ、罰を受けることはない。

○(問)肉食に対する罰を死後受けますか。
(答)もし皆さんの魂が進歩していれば、又、もし皆さんが、神の被造物の弱いものを食べることは、間違いだということを知っていれば、いけないと知りつつ犯した罰を受けることになる。もし魂が未発達ならば、肉食を誤りと気付かないから罰はない。常に、知っていることに対しては、代価を支払わねばならない。その代価とは責任である。