メソジスト派の熱心な牧師が、交霊会に出席して、バーチと次のような対話を行なった。

○(問)貴方にも死の恐怖がありましたか。
(答)いいえ。私達インディアンは皆霊魂を認めているから、死は少しも恐ろしいものではなかった。私達は貴方のメソジスト派の創立者であるウェズレイのように心霊的なのだ。彼は霊の力に動かされた人物であった。だが、現在の人々は一向に霊の力によって動かされることがない。神へ届く鎖には、沢山の環があって、地上最低の者も霊界の最高の天使とも繋がっている。地上の者誰一人、いくら悪人といっても、神と繋がっていない者は一人もいない。

○(問)地上で人間が犯す最大の罪は何ですか。
(答)罪は沢山ある。だが最大の罪といえば、神に反抗する罪である。その意味は、神を知り、しかも神を否定する人々のことである。これがあらゆる罪の中で最大なるものである。

○(問)改訳聖書をどう思いますか。改訳聖書(1884年改訳)と欽定訳聖書(1611年英訳)とどちらがよろしいか。
(答)言葉は問題ではない。大切なのは人が何を為すか、これである。神の真理は多数の書物の中にもあるが、又、神の為に生きようと努める人々の心の中にもある。その人がどこの国の人であれ、又どういう身分階級の人であれ。これこそ聖書の中の聖書である。

○(問)今、Aは邪悪な生活を送ったままで世を終わり、Bは改心して正しく生きようと決心した。この両者には、他界に入ってからどんな相違が起こりますか。
(答)それには聖書の言葉をもってお答えしよう。「人は自ら蒔いたものを、刈り取らねばならない」、誰もこれを変えることは出来ない。人はそのありのままの姿をもって他界に入って来る-それは自分で考えるような自分ではない。それは人に見せる為の虚飾の自分ではない。人の内にある奥の心そのままの自分である。人は他界に入り、初めてあからさまな自分の姿を見ることになる。

○(問)バーチはこの牧師に向かい、「貴方はこの古いインディアンが、聖書のことをよく知っているのでびっくりしましたか」と問うた。牧師が「非常によく御存知ですね」と答えると、列席者の一人が「バーチは3000年前に他界された方ですよ」と告げた。牧師は直ぐに年代を計算しながら、「ダビデを御存知ですか」と尋ねた。ダビデは約3000年前の人物だからである。
(答)私は白人のことは知らない。私はインディアンだ。アメリカ北西部の山中に生存していた。私は皆さんのいう野蛮人である。しかし私の見るところでは、西欧世界は3000年前の賤しいインディアンより、更に野蛮で残忍で無知の状況が続いてきている。今日なお、白人達が経済的に劣った民族に対して行なう酷薄な行為は、神に背く罪の最大なるものである。

○(問)他界に入った人々はどうでしょうか。激しい良心の呵責など感じますか。
(答)一番彼等が残念に思うことは、仕残してきた事である。他界に入ると、霊魂には自然に色々な事が見えてくる。自分のしてきた事の全て、しなければいけないのに果たさなかったこと、その全てが目に見える。この逃がした機会が目に見えるので、それが悔恨をさそう。

○(問)キリスト教をどう御覧になりますか。神の目から見て良いものと言えましょうか。もし貴方がキリストを信じるなら、キリストを手本としようと思われますか。
(答)「神よ神よと言う者が神を信じる者ではない。天なる父の御業を行なう者が神を信じる者である」。肝心なのはこのことである。大切なのは、人の喋る言葉、信じるもの、又考えるものでなく、彼が何を為すか、これである。仮に信仰がなくても、打ちひしがれた者を立ち上がらせ、飢えた者にはパンを与え、暗闇に呻吟する者には光明を与えるなら、その人こそ、神の御業を行なう者である。

○(問)列席者の一人が、イエスは神の分身かどうかと質問した。
(答)イエスは地上に出現した偉大な指導者であった。人々はイエスの教えに耳を貸さず、イエスを処刑した。そして今でも、人々はイエスを処刑しつつある。
 全ての人の内に神の分身がある。一部の人はそれを発揮し、他の人達は少しもこれを発揮しない。
(問)イエスが地上最大の人であることは広く認められています。こういう人が嘘をつく筈がない。イエスは言い給うた「私と天なる父とは一つである。私を見る者は父を見る者である」と。以上はイエスが神であることを示されたのではないでしょうか。
(答)貴方はもう一度、聖書を読み直す必要がある。イエスは「天なる父は私よりも偉大である」と言わなかったかね。
 牧師が「その通りです」と言うと、バーチは更に次のように言葉を続けた。
 イエスは又、人々に「天にまします我等の父」と祈れと教えなかったか。決して自分に向かって祈れとは言わなかったね。とすれば、イエスと天上の父とが同じであるということがどうしてあり得ようか。
 イエスは決して「私に向かって祈れ」とは言っていない、「我等の父に向かって祈れ」こう言ったのだった。

○(問)この世は、なぜこんなに苦しみが多いのですか。
(答)苦痛を通じてのみ、人は神の真理を学び取るのである。辛い経験のるつぼでもまれて、初めて人は世を支配する神法の真理に目覚めるのである。
(問)世間には苦しみをもたない人が沢山いるように思いますが。
(答)人間とは神性を宿した存在、だから、肉体的なことよりも霊的なことが肝心。霊的な苦痛というものは、肉体的苦痛より遙かにその痛みが大きいものだ。

○(問)現代社会は不公平だと思いますが。
(答)いつかは世の事全て、正される時が来る。いつかは、人はその手に天秤を持ち、自らその傾きを、正さねばならぬ時が来る。自ら蒔いたものを、自ら刈り取る、これが大自然の法、人はこの法から逃れることは出来ない。或いは皆さんはこう考えることもある。あの人は傷が軽くて儲かったと。しかしそうではない。人は他人の魂の中まで見ることは出来ないのだから。
 私の知る限り、神法だけが唯一の法である。私は人間の作った法を認めない。それは変りゆくもの、しかし神法は不変のものである。もし世に苦痛がなければ、人は決して欠陥に目を向けようとはしない。この世に苦痛や災禍があるのは、神の子である人類がこれを克服する道を学び取らんが為である。
 私はこの他界で、過去を悔やんでいる多数の僧侶に会う。彼等は過去を振り返っては、ああここで霊的教示を誤って教えた、ああここであまりに聖書の言葉や表現にとらわれすぎて、実践をないがしろにした。もし出来ることなら、もう一度地上に戻りたいと。私はこういう僧侶達に教える。今一度地上に神の真理が芽生えるように、皆さんを通じて通信しなさい、そうしてその通信方法も私が教えてあげると。
 現代は、皆さんがお気付きのように、地上世界は破滅の危機に瀕している。他方では、地上天国の到来を告げる新秩序の暁鐘も聞こえてくる。しかし、それにはなお多大の苦しみ、災禍、涙がある。しかし終局において、神は皆さんの中へ戻って来るのである。人は誰でも、この新天地の実現に力を添えることが出来る。人は神の分身であり、神の御業を助けることが出来るものであるから。

○(問)地上の人間が、完全な生活をして、神のようになることが可能でしょうか。又、全ての人を愛することがはたして出来るでしょうか。
(答)それは不可能だ。しかしそういう努力は可能である。人間の努力は何事によらず人格形成に極めて大切である。もし、人が怒らず、悲しまず、心の平静が保てれば、もはや人間ではない。人は霊性進化の為に地上に置かれ、日に日にこれを伸ばしていく。これが法である。このことは地上でも霊界でも変わりなく進行している。
(問)イエスは「天なる父が完全であるように、皆さんも完全となれ」と言っていますが、これはどういうことになりますか。
(答)それは完全になろうと努力せよ、という意味である。内在の神性を発揮すること、それを日常生活で実現するよう努力すること、これがその教えの主眼である。

○(問)マタイ伝でイエスはこう教えています、「ある者は隣人を、ある者は友人を愛する。だが皆さんは完全であれ、皆さんは神の子なのだから」と。その意は、神が万物を愛するように、人も万人を愛せよ、という意味だと思います。イエスは実行出来ないことを私達に命じているのだと、貴方はお考えになりますか。
(答)貴方は、イエスがこの世で完全な生を送ったと思いますか。
(問)そう思います。
(答)又、イエスは怒ったことがなかったと思いますか。
(問)怒っていけない時には、怒らなかったと思います。
(答)いや、私が聞いているのはそんな事ではない。一度もイエスは怒ったことがなかったかと聞いているのです。
 列席者の一人が、イエスがお宮に行った時の両替商人のことを思い出した。
(答)そう、私はそういう意味で尋ねていたのです。事実から目を逸らして、イエスの生活を見ようとしてはいけない。イエスは神の宮を俗人共が汚すのを見て、非常に立腹し、彼等を追い払ってしまった。これが怒りだ。私はこれがいけないというのではない。だが、これが怒りだ。怒りは人間的な感情である。
 私はただ、イエスにも人間的性情があったことを示す為に、この話を持ち出したにすぎない。皆さんがもしイエスを範として従おうとするなら、イエスも人間であったことをわきまえておかねばならない。ただ彼は神性を大いに発揮した人物、他の人に比べて大きな神性を発揮した人物、お分かりかな。
 イエスの意にかなおうとするなら、イエスを人間の手の届かぬ玉座の高みに据えてはいけない。イエスは貴方と同じまた万人と同じ人間として扱いなさい。これが彼の意にかなうゆえんである。イエスは決して雲の上にいることを望んでいない。人々と同じ所にいることを望んでいる。又彼は一つの範例となることを望んでいる。人々が誰でも、彼が行ったところを行なうことが出来るようにと。もし人がイエスを神の座に据えてしまえば、もはや地上の誰一人、彼に従うことは出来ない。これではイエスの生涯は無駄ということになる。

○(問)人間に自由意思があるとお考えになりますか。
(答)ある。自由意思は法である。
(問)でも時には、自分では何とも出来ない衝動で事を為すことがあります。とすると、意思は決定されているのではありませんか。それとも自由なのでしょうか。
(答)貴方はどう思いますか。
(問)自由だと思います。
(答)人は全て自由意思が与えられている、唯神法の範囲内で生きなければならないということを除いては。法は神の子等の用に立つ為に、神の愛によって定められ、そこにある。人はこれを変更することは出来ない。この範囲内で人間は自由である。
(問)人によって遺伝が強く働くのではないですか。ある人は他の者より楽々と善を為すことがあります。
(答)各人には自由意思があるのだから、これは難しい質問だ。人が不正を行なう時は、内心では不正だと思っている。その声に従うか従わないかは、本人の作り上げた人格によって定まる。罪はその及ぼす害悪に応じて悪さが定まる。
(問)もし、罪はその結果が悪いというだけなら、心の中の罪は何でもないということですか。
(答)罪は全て罪、肉体の行なう罪も、心で犯す罪も、いずれも罪である。さっき貴方は、人間は衝動で動かされることがあると言ったが、その衝動とはどこから来ると思いますか。

 牧師が「それは心の中の思想からです」と答えると、バーチは「では、その思想はどこから来るのか」と尋ねた。牧師が答えに窮して「良い思想は神から来ます」と言うと、バーチは「では悪い思想は」と重ねて尋ねた。牧師が「分かりません」と答えると、バーチは次のように説明を加えた。

(答)神は正しいものの中にも、正しくないものの中にも、一切のものの中にいまし給う。神は太陽の中にも、嵐の中にも、美しいものの中にも、醜いものの中にも在り給う。神は天空の中にも、大洋の中にも、雷や稲妻の中にも在り給う。神は善美の中に在るだけでなく、罪と醜悪の中にも住み給うのである。人は神を、ここだけあそこだけと制約することは出来ない。全宇宙が神の創造によるものであるから、神の霊はあらゆる所に住み給うのである。
 皆さんはどんなものでも差別することは出来ない。これには神の息がかかっていないと言うことは出来ない。陽光は神から来るが、穀物を流す雨は悪魔から来ると言ってはいけない。神はあらゆるものの中にいまし給うのである。
 人は思想を受け取ったり、又発したりすることの出来る通路のようなものだが、人の受け取る思想は、本人の人格と霊いかんによって定まる。だから、もし人がいわゆる完全な生活を送るなら、その人は完全無欠の思想だけを受け取るのである。しかしながら、人間はやはり人間であるから、人間の魂と精神に相応しい思想を受け入れるのである。

○(問)今、ある人が年を経て、ああ自分は悪にばかり従い、善を無視してきたと気付いたとします。そして今彼が死の床にあって、己が人生を悔いているとします。さてバイブルには「人は信仰によって救われる」という言葉があります。これを読む人は心に安心を感じるといいますが、こういう言葉で人が救われるということ、これについて御意見をきかせて下さい。
(答)では、バイブルから私も御存知の言葉を引用しよう。「人は、全世界を得ても、魂を失ったら何の価値があろうか」「まず神の国を求めなさい、そうすれば全てが貴方のものとなる」。貴方はこの言葉をよく御存知の筈、だがその意味が本当にお分かりかな。この言葉が事実であり、実行すればその通りになるということ、これは神の法であるということ、それを知っておられるかな。又貴方は「人は蒔いたものを刈り取る」という言葉も御存知の筈。
 人は神法を欺くことが出来ようか。その生涯をかけて、人々を救う機会を無視してきた者が、臨終に際して別人になってしまうとか、その霊魂が変容するとか、お考えになるのかな。その義務を怠り、幽体にそのことがはっきり記録されている、その怠慢が全て帳消しになるとでもお考えかな。
 神の目から見て、自己の霊性を無視してきた人物が、その生涯を神と人々の為に奉仕し、骨身をすり減らしてきた人物と、同じレベルにあるとお考えになるのかな。
 人が謝りさえすれば、その罪が全て拭い去られるとするなら、神法の正義はどこにあると思われるか。
(問)それは正義ではないと思います。ただ、今死にかけている人に、貴方は人生を滅茶苦茶にしたから、その償いをしなければいけないと言ったのでは、何の慰めも与えることは出来ないではありませんか。
(答)では私の言葉として、その人にこう伝えなさい。もし人が神性の一片でも持つ本当の人間であるなら、人間らしく犯した過去を全て正すであろう。もし自分の行為の結果から逃げ出したいと思うなら、これは人間ではなく卑怯者にすぎないと。
(問)だけど、人がもしその罪を告白するなら、これは常人には出来ない勇気ある行為と、貴方はお考えになりませんか。
(答)それは正しい道へ上るほんの第一歩にすぎない。告白によって犯した罪がいささかでも消えるものではない。人間には自由意思がある。その自由意思で、自分が正しい道を捨てて、誤りの道へ踏み入ったのである。この人は自分の犯した結果から逃れることは出来ない。自分で自分の誤りを正さなければならない。経文を唱えれば逃れられると思っても、それは自分で自分を欺くことにすぎない。自分で蒔いたものを刈り取る、これが法である。

○(問)でも、イエスはこう言っています。「私のもとに来なさい、貴方を休ませてあげよう」と。
(答)バイブルの言葉には、今日の実状に合わないものが沢山あるから、その全部をそのまま受け入れるわけにはいかない。
 神は貴方の内部に、神の理性の幾ばくかを植え付け給うた。どうかその理性を使って頂きたい。もし貴方が人に悪い事をして、これを告白すれば、それは貴方の霊魂の為には良い事だ、しかし悪い事をしたという事実は少しも変らない。貴方が神の面前でこれを正さない限り、その罪は消えることはない。これが法である。人は法を変えることは出来ない。貴方のいわゆるイエスの言葉であるバイブルから、どんな言葉を引用しようとも、神の法は変わるものではない。
 以前にも話したように、バイブルはその全てがイエスの言葉ではない、後世に付加されたものが多い。イエスが今日偉大な師と讃えられるのは、神から来る力と霊示と霊によるのであって、貴方も心を開いて神に向かいさえすれば、それと同じ力と霊示と霊が貴方の前に大手を広げて立っているのである。
 貴方は神の分身である。だから、神の愛と力と英知と知識と真理の一切が貴方の前にあり貴方を待ち受けている。神を求めるのに過去に戻ってはいけない、神は今ここにい給う。イエスの時代にあり給うた同じ神が、その同じ神の力が、今ここにあり給う。
 今日、神の教示と力を伝える通路が全くないわけではない。なぜキリスト教は2000年前の一人の人間にあくまで固執するのか。なぜ神の子である皆さん達は、イエスと同じ神の霊示を受け入れようとしないのか。なぜイエスにばかり戻らねばならないのか。
 なぜ皆さんは、イエスとバイブルの中に神を閉じ込めてしまうのか。神の全てが、一人の人間と一冊の本の中に表現し尽くされたと、皆さんは考えられるのか。私はイエス出生より遙かに以前に生まれた者だが、この私の霊魂を、神は神の平和の中に入ることを許し給わなかっただろうか。
 一冊の書の僅かのページの中に、神の全てが書き記され得ると、貴方はお考えになるのか。バイブルが書き終えられた時、もはや神には人に伝える一片の啓示も持ち合わせていなかったと、貴方はお考えになるか。バイブルの最後のページを繰り終えたら、人は神の力の全てを読み終えたのであると、貴方は考えるのか。

○神の子である貴方に私は望む、神は遍在し給う故に、神に限界を設けてはいけない。地上最低の悪徳漢も、地上最高の聖者と等しく、神としっかり結ばれているのである。

○私は、皆さんの想像以上にイエスとは密接な関係にある者である。私はイエスの目に光る涙を知っている。教会の陰に隠れ、信徒も牧師も、世にある多くの悲惨に目を向けようとしない。神の家と称して教会を建て金銀とステンドグラスをもってこれを飾り立て、だがその陰に、日々の生活に事欠く多くの神の子等がいる。彼等は昼夜の別なく働き疲れ、その身を休らえる家もない。
 皆さんは、人が貴方の所へ来るのを待っていてはいけない、皆さんの方から出かけて行きなさい。皆さんの教会を光明の中心として頂きたい。人の魂を養うだけでなく、飢えた肉体をも養って頂きたい。人々に言葉を与えるだけでなく、パンと生活の資を与えて頂きたい。全ての教会がこのことをしなければ彼等は死んでしまう、彼等は飢えているのだ。

○願わくば神よ、この者がいずこに在り、又何を為そうとも、神の御力と愛がこの者を支えますように、この者の魂が奉仕の思いに満ち、神の霊示に向かって心開かれていますように。神よ願わくば、この者に奉仕の大いなる器を与え給え、この者が光明と平安と至福の家を築き、その家に来る者の全てが、ここに神はいますと心に思いますように。
 神よ、この者を祝福し給え。この者を支え、常に神の道に立たせ給え。更に、この者が神の目的と力と計画とを、いっそう心に明らかに理解するに至りますように。