参戦拒否、徴兵忌避といった不戦主義はスピリチュアリズムにおいてだけでなく、全ての宗教においてその是非が問われ続けている問題である。
 シルバーバーチは常に道義心-魂の奥の神の声-が各自の行為の唯一の審判官であると説き、従ってその結果に対しては各自が責任を取らねばならないと主張している。その論理から、母国を守る為には戦争も辞さず、必要とあらば敵を殺めることも一国民としての義務であると考える人をシルバーバーチは咎めない。これが〝矛盾〟と受け止められて批判的な意見が寄せられることがあるが、これに対してある日の交霊会でこう弁明した。

 「批判的意見を寄せられる方は、私がこれまで戦争というものをいかなる形においても非難し、生命は神聖であり神のものであり、他人の物的生命を奪う権利は誰にもないという主張を掲げて来ながら、今度は〝英国は今や正義の戦に巻き込まれた。これは聖なる戦である。聖戦である〟と宣言する者に加担していると仰います。
 私は永年に亘ってこの霊媒を通じて語ってまいりました。今これまでに私が述べたことを注意深く振り返ってみて、この地上へ私を派遣した霊団から指示された枠に沿って私なりに謙虚に説いて来た素朴な真理と矛盾したことは何一つ述べていないと確信します。今も私は、これまで述べて来た通りに、人を殺すことは間違いである、生命は神のものである、地上で与えられた寿命を縮める権利は誰にもないと断言します。前にも述べたことですが、林檎は熟せば自然に落ちます。もし熟さない内にもぎ取れば、渋くて食べられません。霊的身体も同じです。熟さない内に、つまり、より大きな活動の世界への十分な準備が出来ない内に肉体から離されれば、たとえ神の慈悲によって定められた埋め合わせの原理が働くとはいえ、未熟のまま大きなハンディを背負ったまま新しい生活に入ることになります。
 その観点から私は、これまで述べて来たことの全てをここで改めて主張いたします。これまでの教訓をいささかも変えるつもりはありません。繰り返し(毎週一回)記録されている私の言葉の一語一語を自信をもって支持いたします。同時に私は、いかなる行為においてもその最後に考慮されるのは〝動機〟であることも説いております。
 まだこの英国が第二次世界大戦に巻き込まれる前、所謂〝国民兵役〟への準備に国を挙げて一生懸命になっておられた時分に、〝こうした活動に対してスピリチュアリストとしての態度はどうあるべきでしょうか〟との質問に私は〝そうした活動が同胞への奉仕だと信ずる方は、それぞれの良心の命ずるがままの選択をなさることです〟と申し上げました。
 今英国はその大戦に巻き込まれております。過去にいかなる過ちを犯していても、或いはいかに多くの憎しみの種子を蒔いていても、少なくともこの度の戦争は英国自ら仕掛けたものでないことは確かです。しかし、それでもやはり戦争をしているという咎めは受けなくてはなりません。後ればせながら英国もこの度は、幾分自衛の目的も兼ねて、弱小国を援助するという役目を自ら買って出ております。もしも兵役に喜んで参加し、必要とあらば相手を殺めることも辞さない人が、自分はそうすることによって世界の為に貢献しているのだと確信しているのであれば、その人を咎める者は霊の世界に一人もいません。
 動機が何であるか-これが最後の試練です。魂の中の静かな、そして小さな声が反発するが故に戦争に参加することを拒否する人間と、これが国家への奉公なのだからという考えから、つまり一種の奉仕的精神から敵を殺す覚悟と同時にいざとなれば我が身を犠牲にする覚悟をもって戦場へ赴く人間とは、私達の世界から見て上下の差はありません。動機が最も優先的に考慮されるのです。
 派閥間の論争も結構ですが、興奮と激情に巻き込まれてその単純な真理を忘れた無益な論争はお止めになることです。動機が理想的理念と奉仕の精神に根ざしたものであれば、私達はけっして咎めません」

-それでも、やはり人を殺すということがなぜ正当化されるのか、得心出来ません。

 「必要とあれば-地上的な言い方をすれば-相手を殺す覚悟の人は、自分が殺されるかも知れないという危険を冒すのではないでしょうか。どちらになるかは自分で選択することではありません。相手を殺しても自分は絶対に殺されないと言える人はいない筈です。もしかしたら自らの手で自らを殺さねばならない事態になるかも知れないのです」
 更に別の質問を受けてシルバーバーチはその論拠を改めて次のように説明した。

 「私達は決して地上世界がやっていることをこれでよいと思っているわけではありません。もし満足しておれば、こうして戻って来て、失われてしまった教えを改めて説くようなことは致しません。私共は地上人類は完全に道を間違えたという認識に立っております。そこで、何とかしてまともな道に引き戻そうと努力しているところです。しかし地上には幾十億と知れぬ人間がおり、皆成長段階も違えば進歩の速度も違い、進化の程度も違います。全ての者に一様に当てはめられる型にはまった法則、物的物差し、といったものはありません。固定した尺度を用いれば、ある者には厳し過ぎ、ある者には厳しさが足りないということになるからです。殺人者に適用すべき法律は、およそ犯罪とは縁のない人間には何の係わりもありません。
 かくして人間それぞれに、それまでに到達した成長段階があるということを考慮すれば、それを無視して独断的に規準を設けることは許されないことになります。前にも述べましたように、神は人間各自にけっして誤まることのない判断の指標、すなわち道義心というものを与えています。その高さはそれまでに到達した成長の度合によって定まります。あなた方が地上生活のいかなる段階にあろうと、いかなる事態に遭遇しようと、それがいかに複雑なものであろうと、各自の取るべき手段を判断する力-それが自分にとって正しいか間違っているかを見分ける力は例外なく具わっております。あなたにとっては正しいことも、他の人にとっては間違ったことであることがあります。なぜなら、あなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです。徴兵を拒否した人の方が軍人より進化の程度において高いこともありますし低いこともあります。しかし、互いに正反対の考えをしながらも、両方ともそれなりに正しいということも有り得るのです。
 個々の人間が自分の動機に従って決断すればそれでよいのです。全ての言い訳、全ての恐れや卑怯な考えを棄てて自分一人になり切り、それまでの自分の霊的進化によって培われた良心の声に耳を傾ければよいのです。その声はけっして誤まることはありません。けっしてよろめくこともありません。瞬間的に回答を出します。(人間的煩悩によって)その声がかき消されることはあります。押し殺されることはあります。無視されることもあります。上手い理屈や弁解や言い訳で誤魔化されることもあります。しかし私は断言します。良心はいつも正しい判決を下しています。それは魂に宿る神の声であり、あなたの絶対に誤まることのない判断基準です。
 私達に反論する人達、特にローマカトリック教会の人達は、私達が自殺を容認している-臆病な自殺者を英雄又は殉教者と同等に扱っていると非難します。が、それは見当違いというものです。私達は変えようにも変えられない自然法則の存在を認めると同時に、同じ自殺行為でも進化の程度によってその意味が異なると観ているのです。確かに臆病であるが故に自殺という手段で責任を逃れようとする人が多くいます。しかし、そんなことで責任は逃れられるものではありません。死んでも尚、その逃れようとした責任に直面させられます。しかし同時に、一種の英雄的行為ともいうべき自殺-行為そのものは間違っていても、そうすることが愛する者にとって唯一の、そして最良の方法であると信じて自分を犠牲にする人もいます。そういう人を卑怯な臆病者と同じレベルで扱ってはなりません。大切なのは〝動機〟です」

 ここでメンバーの一人が、不治の病に苦しむ人が周りの人達へ迷惑をかけたくないとの考えから自殺した例を挙げた。するとシルバーバーチは-
 「そうです。愛する妻に自由を与えてやりたいと思ったのかも知れません。〝自分がいなくなれば妻が昼も夜もない看病から解放されるだろう〟-そう思ったのかも知れません。その考えは間違いでした。真の愛はそれを重荷と思うようなものではない筈です。ですが、その動機は誠実です。心がひがんでいたのかも知れません。しかし、一生懸命彼なりに考えた挙句に、そうすることが妻への最良の思いやりだと思って実行したことであって、けっして弱虫だったのではありません」

 では最後に〝戦うことは正しいことだと思いますか〟という質問に対するシルバーバーチの答えを紹介しておこう。これは大戦が勃発する前のことであるが、その主張するところは勃発後と変わるところはない。これを〝矛盾〟と受け止めるかどうか-それは読者ご自身が全知識、全知性、全叡智を総動員して判断して頂きたい。
 「私は常々たった一つのことをお教えしております。動機は何かということが一番大切だということです。そうすることが誰かの為になるのであれば、いかなる分野であろうと、良心が正しいと命じるままに実行なさることです。私個人の気持としては生命を奪い合う行為はあって欲しくないと思います。生命は神のものだからです。しかし同時に私は、強い意志をもった人間を弱虫にするようなこと、勇気ある人間を卑劣な人間にするようなことは申し上げたくありません。すべからく自分の魂の中の最高の声に従って行動なさればよいのです。但し、殺し合うことが唯一の解決手段ではないことを忘れないでください」

-例えばもし暴漢が暴れ狂って手の施しようがない時は殺すという手段もやむを得ないのではないでしょうか。

 「あなた方はよく、ある事態を仮定して、もしそうなった時はどうすべきかをお尋ねになります。それに対して私がいつもお答えしていることは、人間として為すべきことをちゃんと行っていれば、そういう事態は起きなかった筈だということです。人間が従うべき理念から外れたことをしながら、それをどう思うかと問われても困るのです。私達に出来ることは、真理と叡智の原則をお教えし、それに私達自身の体験から得た知識を加味して、その原則に従ってさえいれば地上に平和と協調が訪れますと説くことだけです。流血の手段によっても一時的な解決は得られますが、永続的な平和は得られません。
 血に飢えて殺人を犯す人間がいます。一方、自由の為の戦いで殺人行為をする人もいます。そういう人の動機に私は異議は唱えません。どうして非難出来ましょう。明日の子供の為に戦っている今日の英雄ではありませんか。
 私に出来ることは真理を述べることだけです。だからこそ政治的レッテルも宗教的ラベルも付けていないのです。だからこそどこの教会にも属さず、所謂流派にも属さないのです。
 人間は自分の良心の命じる側に立って、それなりの役目を果たすべきです。どちらの側にも-敵にも味方にも-立派な魂をもった人がいるものです。ですから、動機とは何か-それが一番大切です。こうすることが人の為になるのだと信じて行うのであれば、それがその人にとっての正しい行為なのです。知恵が足りないこともあるでしょう。しかし、動機さえ真剣であれば、その行為が咎められることはありません。なぜなら魂にはその一番奥にある願望が刻み込まれていくものだからです。
 私は常にあなた方地上の人間とは異なる規準で判断していることを忘れないでください。私達の規準は顕と幽のあらゆる生活の側面に適用出来る永遠に不変の規準です。時には悪が善を征服したかに思えることがあっても、それは一時的なものであり、最後には神の意志が全てを規制し、真の公正が行き渡ります。
 その日その日の気紛れな規準で判断しているあなた方は、その時々の、自分が一番大事だと思うものを必要以上に意識する為に、判断が歪められがちです。宇宙を大いなる霊が支配していることを忘れてはなりません。その法則がこの巨大な宇宙を支えているのです。大霊は王の中の王なのです。その王が生み神性を賦与した創造物が生みの親をどう理解しようと、いつかはその意志が成就されてまいります。
 地上の無益な悲劇と絶望の有様を見て私達が何の同情も感じていないと思って頂いては困ります。今日の地上の事態を見て心を動かされなかったら、私達はよほど浅はかな存在といえるでしょう。しかし私達はそうした地上の日常の変転きわまりないパノラマの背後に、永遠不変の原理を見ているのです。
 どうかその事実から勇気を得てください。そこにインスピレーションと力とを見出し、幾世紀にも亘って善意の人々が夢見てきた真理の実現の為に働き続けてください。その善意の人々は刻苦勉励してあなた方の世代へ自由の松明を手渡してくれたのです。今あなた方はその松明に新たな炎を灯さなくてはならないのです」(巻末〝解説〟参照)