(シルバーバーチの霊訓第五巻・巻末付録・訳者近藤千雄解説)

 本書は Teachings of Silver Birch の続編で、編者は同じくオースティンである。オースティンという人はバーバネルが職業紹介所を通じて雇い入れた、スピリチュアリズムには全くの素人だった人で、早速ある霊媒の取材に行かされて衝撃的な現象を見せ付けられ、一変に参ってしまった。その後例の英国国教会スピリチュアリズム調査委員会による〝多数意見報告書〟の取得をめぐってバーバネルの片腕として大活躍している。最近の消息は分からない。Psychic News`Two Worldsのいずれにも記事が見当たらないところをみると、既に他界したのかも知れない。筆者が1981年と84年にサイキックニューズ社を訪れた時も姿は見当たらなかった。
 この人の編纂の特徴は、なるべく多くの話題をとの配慮からか、あれこれと細かい部分的抜粋が多いことである。〝正〟〝続〟とも同じで、時に短過ぎることもある。その極端な例が動物の死後を扱った第七章で、原典に紹介されているのは実際の霊言の十分の一程度である。訳者としては物足らなさを感じるので、シルビア・バーバネルの(霊言集とは関係のない)本に紹介されている同じ交霊会の霊言全部をそっくり引用させてもらった。
 さて本書には各自が〝思索の糧〟とすべき問題、そして又同志との間でも議論のテーマとなりそうな問題が少なくない。又人間としてどうしても理解しかねるものもある。
 例えば第三章で最後の審判を信じるクリスチャンが何百年、何千年もの間自分の墓地でその日の到来を待っている(実際には眠っている者の方が多い)という話がある。さぞ待ちくたびれるだろう、退屈だろうと思いたくなるが、シルバーバーチは霊界には時間というものがないから待っているという観念も持たないという。
 それを夢の中の体験に譬えられればある程度まで得心がいく。人間にとって一瞬と思える時間で何ヶ月、或いは何年にも亘る経験を夢で見ることがあるのは確かである。霊は反対に人間にとって何ヶ月、何年と思える時間が一瞬に思えることがあるらしい。そこが我々人間には理解しにくい。
 が、それを地上で体験する人がいることは事実である。崖から足を踏み外して転落して九死に一生を得た人が語った話であるが、地面に落ちるまでの僅か二、三秒間に、それまでの三、四十年の人生の善悪に関わる体験の全てを思い出し、その一つ一つについて、あれは自分が悪かった、いや、これは自分は絶対に間違っていないといった反省をしたという。野球の大打者になると打つ瞬間にボールが目の前で止まって見えることがあるという。意識にも次元があり、人間があるように思っている時間は実際には存在しないことが、こうした話から窺える。
 しかし太陽は東から昇り西に沈むという地上では常識的な事実を考えてみると、これは地球が自転していることから生じる人間の錯覚であるが、いくら理屈ではそう納得しても、実際の感じとしてはやはり毎朝太陽は東から昇り西に沈んでいる。それと同じで、我々人間は実際には存在しない時間を存在するものと錯覚して生活しているに過ぎなくても、地上にいる限りは時間は存在するし、そう思わないと生きて行けない。こうしたことはいずれあの世へ行けば解決のつく問題であるから、それでいいのである。
 神の概念も今直ぐに理解する必要のない問題、というよりは理解しようにも人間の頭脳では理解出来ない問題であるから、あまりムキになって議論することもないであろう。
 しかし〝動機〟と〝罪〟の問題は、あの世へ行ってからでは遅い、現在の我々の生活に直接関わる問題であり、是非とも理解しておかねばならない問題であろう。
 筆者個人としては、こうした問題を意識し始めた青年時代からシルバーバーチその他の霊的思想に親しんできたので、本書でシルバーバーチが言っていることは〝よく分かる〟のであるが、部分的に読まれた方には誤解されそうな箇所があるので解説を加えておくことにした。
 字面だけでは矛盾しているかに思えるのは、第十二章で動機が正しければ戦争に参加して敵を殺すことも赦されると言っておきながら、第十一章では罪は結果に及ぼす影響の度合によって重くもなれば軽くもなると述べていることである。
 シルバーバーチは常々〝動機が一番大切〟であることを強調し、〝動機さえ正しければよい〟といった言い方までしているが、それはその段階での魂の意識にとっては良心の呵責にならない-その意味において罪は犯していないという意味であって、それが及ぼす結果に対して見知らぬ顔をしてもよいという意味ではない。たとえその時点では知らぬ顔が出来ても、霊格の指標となる道義心が高まれば、何年経った後でも苦しい思いをし反省させられることであろう。
 それは自分が親となってみて初めて子としての親への不幸を詫びる情が湧いてくるのと同じであろう。その時点では親は親としての理解力すなわち愛の力で消化してくれていたことであろうから罪とは言えないであろう。しかし罪か否かの次元を超えた〝霊的進化〟の要素がそこに入って来る。それは教会の長老が他界して真相に目覚めてから針のムシロに座らされる思いがするのと共通している。
 戦争で人を殺すという問題でシルバーバーチは、その人も殺されるかも知れない、もしかしたら自らの生命を投げ出さねばならない立場に立たされることもあることを指摘するに留めているが、第三章でメソジスト派の牧師が〝自分は死後、自分が間違ったことを教えた信者の一人一人に会わなければならないとしたら大変です〟と言うと、その時点では既に自ら真相に目覚めてくれている人もいるであろうし、牧師自身のその後の真理普及の功徳によっても埋め合わせが出来ているという意味のことを述べている。この種の問題は個々の人間について、その過去世と現世と死後の三つの要素を考慮しなければならないであろうし、そうすればきちんとした解答がそれぞれに出て来ることなのであろう。
 更にもう一つ考慮しなければならない要素として、地球人類全体としての発達段階がある。第四巻で若者の暴力の問題が話題となった時シルバーバーチは、現段階の地上人類には正しい解決法は出し得ないといった主旨のことを述べている。これは病気の治療法の問題と同じであろう。動物実験も、死刑制度も、人類が進化の途上で通過しなければならない幼稚な手段であり、今直ぐにどうするといっても、より良い手段は見出せないのであろう。それは例えば算数しか習っていない小学生には数学の問題が解けないのと同じであろう。
 殊に社会的問題は協調と連帯を必要とするので、たとえ一人の人間が素晴らしい解決法を知っていても、人類全体がそれを理解するに至らなければ実現は不可能である。シルバーバーチはそのことを言っているのである。
 戦争がいけないことは分かり切っている。が、現実に自国が戦争に巻き込まれている以上、そうして又、その段階の人類の一員として地上に生を享けている以上、自分一人だけ手を汚さずにおこうとする態度も一種の利己主義であろう。もしもその態度が何等かの宗教の教義から来ているとすれば、それはシルバーバーチのいう宗教による魂の束縛の一例と言えよう。〝私は強い意志をもった人間を弱虫にするようなこと、勇気ある人間を卑劣な人間にするようなことは申し上げたくありません〟という第十二章の言葉はそこから出ている。
 これを発展させていくと、所謂俗世を嫌って隠遁の生活を送る生き方の是非とも関連した問題を含んでいる。筆者の知る限りでは高級霊程勇気をもって俗世を生き抜くことの大切さを説いている。イエスのいう(俗世にあってしかも俗人となるなかれ)である。このちっぽけな天体上の、たかが五、七十年の物的生活による汚れを恐れていてどうなろう。『霊訓』のイムペレーターの言葉が浮かんで来る-
 「全存在のホンの一欠片程に過ぎぬ地上生活にあっては、取り損ねたら最後二度と取り返しがつかぬという程大事なものは有り得ぬ。汝ら人間は視野も知識も人間であるが故の宿命的な限界によって拘束されている。・・・・人間は己に啓示されそして理解し得た限りの最高の真理に照らして受け入れ、行動するというのが絶対的義務である。それを基準として魂の進化の程度が判断されるのである」