(シルバーバーチの霊訓第一巻・巻末付録・訳者近藤千雄解説)

 歴史的に辿れば、人類全体としての啓発に寄与する程の霊的啓示は、各民族個有の宗教の起原となった聖典に求めることが出来よう。モーセの「十戒」、キリスト教のバイブル、イスラム教のコーラン、仏教の原初仏典、日本の古神道の原典等がその主だったものと言えよう。
 これらの中でも日本の古神道所謂神ながらの道の思想は人工的夾雑物が少なく、自然で、最もスピリチュアリズム的要素に富んでいるというのが、長年各種の霊界通信に親しんできた筆者の私見であるが、問題はいかなる啓示もその起原においては霊的であっても、時代と共に人間的主観によって歪められていくということである。
 〝スピリチュアリズムのバイブル〟と呼ばれて今尚欧米においてロングセラーを続けるモーゼスの『霊訓』の中で、インペレーターと名乗る最高指導霊(実は旧約聖書に出て来る予言者マラキ)がこう述べている。

 「・・・・聖書(バイブル)に記録を留める初期の歴史を通じて、そこには燦然と輝く偉大なる霊の数々がある。彼等は地上に降りては真理と進歩の光として輝き、地上を去りて後は後継者を通じて啓示をもたらしてきた。その一人-神が人間に直接的に働きかけるものとの信仰が今より強く支配する初期の時代の一人にサレム(現在のパレスチナの西部にあった古代都市)の王メルキゼデクがいる。彼はアブラハムを聖別(聖なる目的に使用する為に世俗より離す)して神の恩寵の象徴による印章を譲ったのだった。これはアブラハムが霊力の媒体として選ばれたことを意味する。当時においてはまだ霊との交わりの信仰が残っていたのである。彼は民にとりては暗闇に輝く光であり、神にとりては民の為に送りし神託の代弁者であった。
 ここで今まさに啓発の門出に立つ汝に注意しておくが、太古の記録を吟味するに当たりては事実の記録と単なる信仰の表現に過ぎぬものとを截然と区別せねばならぬ。初期の時代の歴史には辻褄の合わぬ言説が豊富に見受けられる。それらは伝えられるが如き秀でた人物の著作によるものではなく、歴史が伝説と混じり合い、単なる世間の考えと信仰とが誠しやかに語り継がれし時代の伝説的信仰の寄せ集めに過ぎぬ。それ故、確かに汝らの聖書と同じくその中に幾ばくかの事実はなきにしもあらずであるが、その言語の一つひとつに無条件の信頼を置くことは用心せねばならぬ」
 こう述べた後、キリスト教を例にしてその啓示の系譜を明らかにする。

 「メルキゼデクは死後再び地上に戻り、当時の最大の改革者-イスラエルの民をエジプトより救出し、独自の律法と政体を確立せる指導者-モーセを導いた。霊力の媒介者として彼は心身共に発達せる強力なる人物であった。当時既に、当時としては最高の学派において優れた知的叡智、エジプト秘伝の叡智が発達していた。人を引きつける彼の強烈なる意志が、支配者としての地位に相応しい人物とした。その彼を通じて強力なる霊団がユダヤの民に働きかけ、それが更に世界各地へと広がって行った。大民族の歴史的大危機に際し、その必要性に応じた宗教的律法を完成させ、政治的体制を入念に確立し、法律と規律を制定した。その時代はユダヤ民族にとりては、他の民族も同様に体験せる段階、そして現代も重大なる類似性をもつ段階、すなわち古きものが消えゆき、霊的創造力によりて全てのものが装いを新たにする、霊的真理の発達段階であった。
 ここでも又、推理を誤ってはならぬ。モーセの制定せる律法は汝らの説教者達の説くが如き、いつの時代にも適応さるべき普遍絶対のものにはあらず。その遠き古き時代に適応せるものが授けられたのである。すなわち当時の人間の真理の理解力の程度に応じたものが、いつの時代にもそうであった如く、神の使徒によりて霊的能力に富む者を介して授けられたのである。
 (中略)
 今日尚存続せるかの「十戒」は変転極まりなき時代の為に説かれた、真理の一面に過ぎぬ。もとより、そこに説かれたる人間的行為の規範は、その精神においては真実である。が、既にその段階を超えたる者に字句通りに当てはめるべきものにはあらず。かの十戒はイスラエルの騒乱から逃れ、地上的煩悩の影響に超然たるシナイ山の頂上において、モーセの背後霊団より授けられたのであった。
 (中略)
 メルキゼデクがモーセの指導霊となりたる如く、そのモーセも死後エリヤの指導霊として永く後世に影響を及ぼした。断っておくが、今我等はメルキゼデクよりキリストに至る連綿たる巨大な流れを明確に示さんが為に他の分野における多くの霊的事象に言及することを意図的に避けている。又その巨大な流れの中には数多くの優れたる霊が出現しているが、今はその名を挙げるのは必要最小限に留め、要するにそれらの偉大なる霊が地上を去りたる後も尚地上へ影響を及ぼし続けている事実を強く指摘せんとしているのである。他にも多くの偉大なる霊的流れがあり、真理の普及の為の中枢が数多く存在した。がそれは今の汝には関わりはあるまい。イエス・キリストに至る巨大な潮流こそ汝にとりて最大の関心事であろう。もっとも、それをもって真理の独占的所有権を主張するが如き、愚かにして狭隘なる宗閥心だけは棄ててもらわねばならぬ」

 さてスピリチュアリズムは、人類が知性の飛躍的発達と共に霊的なものに背を向け、物質文明へ向けて急旋回し始めた十九世紀半ば頃に勃興し、今日までに数多くの珠玉の霊的啓示を入手することに成功している。その代表的なものが右に紹介した『霊訓』並びに『続霊訓』であり、マイヤースの『永遠の大道』並びに『個人的存在の彼方』であり、オーエンの『ベールの彼方の生活』であり、フランス人アラン・カルデックの編纂になる『霊の書』並びに『霊媒の書』であり、そしてこの『シルバーバーチの霊訓』全十一巻である。
 以上は比較的長文のものを拾ったまでで、小冊子程度のものまで数えれば、それこそ枚挙に暇がない程であり、内容的に貴重なものも少なくない。もっと言えば、立派な通信を入手しながら、様々な事情から公表を諦めたものもあるであろう。筆者がそう推測する根拠は、オーエンが『ベールの彼方』を刊行するまでの経緯にある。その「まえがき」の中でこう述べている。

 「さて、〝聖職者というものは何でも直ぐに信じてしまう〟というのが世間一般の通念であるらしい。成る程〝信仰〟というものを生命とする職業である以上、そういう観方をされてもあながち見当違いとも言えないかもしれない。が、私は声を大にして断言しておくが、新しい真理を目の前にした時の聖職者の懐疑的態度だけは、いかなる懐疑的人間にも決して引けを取らないと信じる。ちなみに私が本通信を〝信じるに足るもの〟と認めるまでに丁度四分の一世紀を費やしている。すなわち、確かに霊界通信というものが実際に存在することを認めるのに十年、そしてその霊界通信という事実が大自然の理法に適っていることを明確に得心するのに十五年もかかった」
 国教会の牧師だったオーエンはこれを出版したことで教会長老の怒りを買い、〝回心〟を求められたが頑として聞き入れず自ら辞職している。可能性としては身の保全の為にそれを公表せず焼却処分にすることも有り得たわけであり、現実にそういうケースが他に幾つもあったであろうことは十分に推測される。
 さて『霊訓』の一節に人類の進歩と共に啓示の内容も進歩するというくだりがあるが、右に紹介した霊界通信に絞ってみてもそれが窺える。例えば『霊訓』の中においては『再生』の問題は一切見当たらず、モーセの死後に編纂された『続霊訓』の中に僅かに散見される程度である。この続編はモーセの恩師であるスピーア夫人が審神者(さにわ)となって得た霊言を主体に収録されているが、その中に次のような個所がある。

 「霊魂の再生の問題はよくよく進化せる高級霊のみが論ずることの出来る問題である。大神のご臨席のもとに神庁において行われる神々の協議の中身につきては、神庁の下層部の者にすら知ることを得ぬ。正直に申して、人間にとりて深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが霊魂の究極の運命である。神庁において神議(はか)りに議られし後に、一個の霊が再び地上へ肉体をもって生まれるべしと判断されるか〝否〟と判断されるかは、誰にも分からぬ。誰にも知り得ぬのである。守護霊さえ知り得ぬのである。全ては良きに計らわれるであろう。
 既に述べた如く、地上にて広く喧伝されている形での再生は真実にはあらず。又偉大なる霊が崇高なる使命と目的とをもちて地上に降り人間と共に生活を送ることはある。他にも我等なりの配慮により広言を避けている一面もある。まだその機が熟していないからである。霊なら全ての神秘に通じていると思ってはならぬ。そう広言する霊は自ら己の虚偽性の証拠を提供しているに他ならぬ」

 これはインペレーターの霊言である。末尾の〝他にも我等なりの配慮により云々・・・・〟という言葉から窺えるように、再生は〝あるにはある〟といった程度に止めている。
 これがほぼ半世紀後に出たシルバーバーチになると、再生を魂の向上進化の絶対的条件として前面に押し出し、〝人間の言語ではその真相が上手く伝えられないが・・・〟と断りつつも、その目的と意義を繰り返し説いている。本書(アン・ドゥーリー編)では再生に関する具体的な霊言は採録されておらず、僅かに第十章の「質問に答える」の中で簡単に触れているだけであるが、他の十巻の全部で詳しく説かれている。
 霊媒のモーゼスもバーバネルも共に英国人である。英国において同じくイエス・キリストを霊的源流とする二つの霊的啓示が、一方は〝まだその時機でない〟という態度を取り、他方が〝今こそその時機である〟という態度で臨んでいるこの対照は、明らかに〝啓示の進歩〟を物語るものと観てよいであろう。
 今も述べたように、先に列挙した霊的啓示は多かれ少なかれキリスト教的色彩を帯びている。ナザレ人イエスにその淵源を求めることが出来るという意味である。すなわちメルキゼデクに発した大きな霊的潮流がイエス・キリストの出現で一つのクライマックスを迎え、それが一旦埋もれた後、十九世紀の後に再び多くの霊媒を通して霊言或いは自動書記の形で地上へ奔出し始めたと観ることが出来る。シルバーバーチはイエスについて見解を求められて次のように語っている。

 「ナザレ人イエスは神より託された使命を成就せんが為に物質界へ降りた多くの神の使徒の一人でした。イエスは地上での目的は果たしました。が残りの使命はまだ果たしておりません。それが今まさにイエスの指揮の下に成就されつつあるところです。
 (中略)
 イエスを通して地上へ働きかけた霊は、今尚、二千年前に始まった事業を果たさんとして引き続き働きかけております。その間イエスの霊は数え切れない程何度も磔にされ、今尚毎日のように磔にされております」

-あなたが〝ナザレ人イエス〟と言う時、それは地上で生活したあの人間イエスのことですか、それともイエスを通して働いている霊的威力のことですか。
 「あの人間イエスのことです。但しその後イエスも向上進化し、地上時代より遙かに大きな意識となって顕現しております。地上時代は、当時の時代的制約に合わさざるを得なかったのです。それでも尚、地上の人間でイエス程霊の威力を発揮した者はおりません。イエス程強烈に霊的摂理を体現した人間はおりません」

 -この二千年の間に一人もいないのでしょうか。
 「いません。前にも後にもおりません。地上という世界があの時代程偉大な神の啓示に浴した時代はありません。しかし私達は地上に誕生した人間イエスを崇めているのではありません。イエスを通して働きかけた霊の力に敬意を表するのです。人間というのは、どれだけ霊力の道具として役に立ったかによって、その人に払われる敬意の度合が決まるのです」

-霊界には今後イエスの如き人物を地上へ送ることによって更に奥深い啓示をもたらす計画があるのでしょうか。
 「様々な民族の必要性に応じて、様々な手段が講じられつつあります。忘れてならないのは、現在の地上はますます複雑さを増し、相互関係がますます緊密となり、それだけ多くの通信回路を開かねばならなくなっているということです。各民族の異なった気質、習慣、思想、生活手段や様式を考慮に入れなくてはなりません。通信の内容もその国民の生活環境や特質、民族的習性に合わさなくてはなりません。それをその国民の言語で表現せねばならず、その他諸々の制約があります。が、啓示の由(よ)って来る究極の淵源は皆同じです」

 百年を生きるのがやっとという我々地上の人間にとって二千年とか五千年という時の流れは気の遠くなる思いがするが、悠久の宇宙的尺度をもってすればほんの短い一時期に過ぎないのであろう。巷間にはこれから後の僅か百年二百年について、やたらに悲愴感を煽るもったいぶった予言書が出版されているが、筆者はこうした、人の心を怖気づかせ魂を縮み上がらせるようなものは決して純正な予言ではない、否、極めて悪質であると思う。もっとも、悠久の目をもって見れば〝悪質なイタズラ〟程度のものなのかもしれないが。
 純正な霊的啓示は常に魂を鼓舞し生きる勇気を与えてくれるものをもっている。それは以上紹介した霊的啓示の系譜の中に如実に見られる一大特質である。
 筆者が今携わっている仕事はいわば西洋的系譜の啓示を日本へ輸入することであるが、右のシルバーバーチの霊言から推測されるように、日本には日本なりの一大啓示の時代がいずれ到来するものと信じている。私見によれば、それは多分神道的色彩を帯びることであろう。そしてそれを西洋へ逆輸出する形になるのかもしれない。そうすることによって西洋的な啓示と東洋的な啓示とが合流して一大奔流となって世界を流れる時こそ真の世界平和、所謂地上天国が築かれるのではなかろうか。
 ただ少なくとも日本の現状に目をやる時、今はこうした西洋的系譜の啓示を是非とも普及しなければならない時代であるという認識をもつのは、一人筆者のみではないと信じている。
 では、おしまいに再び『霊訓』から啓示の本質に触れた部分を紹介しておこう。〝新しい啓示〟と〝古い啓示〟との間の矛盾の問題に言及してインペレーターはこう述べている。

 「啓示は神より与えられる。神の真理であるという意味において、啓示が別の時代の啓示と矛盾するということは有り得ぬ。但しその真理は常に時代の必要性と受容能力に応じたものが授けられる。一見矛盾するかに思えるものは真理そのものには有らずして、人間の心にその原因がある。人間は単純素朴では満足し得ず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りする。時の経過と共にいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなっていく。矛盾すると同時に不純でありこの世的なものとなってしまう。
 やがて新しき啓示が与えられる。がその時は最早それをそのまま当てはめられる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り壊さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示には矛盾はなない。が、矛盾せるが如く思わしめるところの古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を見せねばならぬ。人間はそれに宿る理性の光にて物事を判断せねばならぬ。理性こそ最後の判断基準であり、理性の発達せる人間は、無知なる者や偏見に固められたる人間が拒絶するものを喜んで受け入れる。
 神は決して押し売りはせぬ。この度の啓示も、地ならしとして限られた人間への特殊な啓示と思うがよい。これまでもそうであった。モーセは自国民の全てから受け容れられたであろうか。イエスはどうか。パウロはどうか。歴史上の改革者をみるがよい。自国民に受け入れられた者が一人でもいたであろうか。
 神は常に変わらぬ。神は啓示はするが決して押し付けはせぬ。用意の出来ている者のみがそれを受け入れる。無知なる者、備えなき者はそれを拒絶する。それでよいのである」
       
       
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