私が深く敬意を払っている先生方、とりわけウィリアム・バレット教授は、心霊研究は宗教とは全く縁のないものであると主張している。確かにその通りであると私も思う。研究家としては立派でありながら人間的には感心しない人もいることを考えれば、当然のことである。ところが、その研究成果と、それから導かれる推論、そしてそれが教えている教訓は、魂の死後存続の事実、その世界の様子、そして又、それがこの世の所業によってどう影響されるかについての情報なのである。
 このことをもってしてもなお宗教とは無縁、というのであれば、私は正直いってどこが無縁なのかが理解出来ない。私にとって、それはまさに宗教そのもの-宗教の神髄なのである。
 といって、スピリチュアリズムがいずれ新しい宗教としての体系をもつに至るという意味ではない。私個人の意見としては、そういうことには絶対ならないと信じている。言うまでもなく、現在の地上人類は宗教的にはバラバラである。私は寧ろそれを一体化させるもの-キリスト教系の宗教であろうと非キリスト教系の宗教であろうと、ありとあらゆる宗教が、様々なタイプの人間の心に訴える固有の体系を確立する-その必要があればのことであって、必ずしもその必要はないと思うが-その為の共通の基盤としての統合的要素であると見做したい(注)。
 南方の民族は北方の民族よりも厳格さの少ないものを求める傾向があるし、西方の民族は東方の民族よりもせんさく好きである。全てを一列平等に並べて考えてはならない。が、霊的教訓によって確認の得られた宗教的大前提が広く受け入れられることになれば、宗教界の調和と一体化へ向けて、大きな一歩を踏み出すことになる。
 そこで、問題は、これまで人類に影響を及ぼしてきた伝統的な宗教と人生思想にこの新しい啓示がどう影響を及ぼすかということである。
 それに対する回答は、致命的な打撃を受けるのは一つしかない-唯物思想である、ということになる。こう述べる時の私には、唯物論者への敵意のようなものは微塵もない。列記とした思想体系をもつ一派としてみる限りは、真摯であり道義を弁えた人達であると私は信じている。しかし、スピリットが物質を離れて存在するという事実が確立された以上、唯物思想の根底が無くなったことになり、必然的にその思想体系は崩れ去ることになるであろう。
 その他の思想に関していえば、霊界からもたらされた教えを受け入れれば、伝統的なキリスト教思想は大幅に書き改めねばならなくなることは必定である。それは、両者が正面衝突するという意味ではなく、本来の意味を正しく解説し発展させるという方向での修正である。
 良識ある人間が理性的に考えて明らかにおかしいと思える誤りを正すことになるが、同時に、死後の存続の事実という宗教の絶対的基盤を、改めて確認し現実的なものとしてくれる。罪悪にはそれ相当の罰が伴うことはその通りだが、永遠の火刑だの地獄だのといったものは存在しないことも明らかにされるであろう。
 又、西洋で〝天使(エンゼル)〟と呼んでいる高級霊と、その高級霊による整然とした支配体制が確かに存在し、それが無限の高さにまで伸び、論理的にいえばその頂点に全知全能の神が存在するということになる。無上の幸福の境涯としての天国が存在する一方、試練の境涯というものが存在するが、呪われた者が堕ちる地獄というものは存在しない。
 かくしてこの新しい啓示は、最も重大な教えに関する限り、古い信仰を破壊するものではなく、あらゆる宗教における真摯な求道者にとっては、悪魔に唆された油断のならない敵ではなく、寧ろ強力な味方として大歓迎されて然るべきものなのである。

 (注)-このドイルの意見はスピリチュアリズムの神髄を理解した〝卓見〟というべきである。この時期までにドイルが目を通していた本格的な霊界通信はモーゼスの『霊訓』だけであるが、それから数年後にはG・V・オーエンの The Life Beyond the Veil (拙訳『霊界通信・ベールの彼方の生活』全四巻・潮文社)が出て、スピリチュアリズムが紀元前から計画されたグローバルな地球浄化活動の一環であることを明らかにしている。更に、同じ頃から霊媒モーリス・バーバネルを通じて語り始めた古代霊シルバーバーチが、全く同じ趣旨のことを述べている。
 この三者に共通しているのは、地球浄化の計画は、地上で〝ナザレのイエス〟と呼ばれた人物のスピリットが本来の所属界(地球神界)に戻ってから霊団を組織して、神界→霊界→幽界と押し進めてきたもので、それがいよいよ地球圏に辿り着いたのが十九世紀半ばのハイズビル事件だったとする点である。
 当初は現象的なものが圧倒的に多かったが、次第に思想的なものへと移行し、更にはハリー・エドワーズに代表されるように、霊的治療という形での霊力のデモンストレーションが主流となりつつある。スピリチュアリズムというのは、地球人類の意識をスピリチュアライズ(霊的に改革)する為の活動を総合したものをいい、組織をもったり信条を誓ったりする性質のものではない。ドイルの言う通り、あくまで個々人の理解力によって人生に適用していくべきものである。