死の直後について私がまず間違いないと見ているのは、次の諸点である。〝死ぬ〟という現象には痛みは伴わず、至って簡単である。そして、その後で、想像もしなかった安らぎと自由を覚える。やがて肉体とそっくりの霊的身体を纏っていることに気付く。しかも、地上時代の病気も障害も、完全に消えている。その身体で、脱け殻の肉体の側に立っていたり、浮揚していたりする。そして、霊体と肉体の双方が意識される。それは、その時点ではまだ物的波動の世界にいるからで、その後急速に物的波動が薄れて霊的波動を強く意識するようになる。
 所謂〝臨終〟の際に遠くにいる肉親や縁者に姿を見せたりするのは、その時点ではまだ霊体に物的波動が残っているからである。エドマンド・ガーニー(注1)氏の調査によると、その種の現象の二百五十件の内百三十四件が死亡直後に発生していることが分かっている。物的要素が強いだけ、それだけ人間の霊視力に映じ易いということが考えられる。
 しかし右の数字は、収集された体験のほぼ半分ということであって、地上で次々と他界していっている厖大な死者の数に比べれば、稀なケースでしかない。大部分の死者は、私が想像するに、思いも寄らなかった環境の変化に戸惑い、家族のことなどを考えている余裕はないであろう。更には、自分の死の知らせで集まっている人達に語りかけても、身体が触れても、何の反応もないことに驚く。霊的身体と物的身体との波長の懸隔があまりに大きいからである。
 光のスペクトルには人間の視覚に映じないものが無数にあり、音のスペクトルにも人間の聴覚に反応しないものが無数にあるということまで分かっている。その未知の分野についての研究が更に進めば、いずれは霊的な領域へと辿り着くという考えは、あながち空論とは言えないのではないかと思うのであるが、いかがであろうか。
 それはさておいて、死者が辿るその後の行程を見てみよう。やがて気が付いてみると、自分の亡骸の置かれた部屋に集まっている肉親・知人の他に、どこかで見たことのある人達で、しかも確か他界してしまっている筈の人達がいることに気付く。それが亡霊といった感じではなく、生身の人間と少しも変わらない生き生きとした感じで近寄ってきて、手を握ったり頬に口づけをしたりして、ようこそと歓迎してくれる。
 その中に、見覚えはないのだが、際立って光輝に溢れた人物がいて、側に立って〝私の後について来なさい〟と言って出て行く。ついて行くと、ドアから出て行くのではない。驚いたことに、壁や天井を突き抜けて行ってしまう。こうして新しい生活が始まるというのである。
 以上の点に関してはどの通信も首尾一貫していて、一点のあいまいさも見られない。誰しも信じずにはいられないものである。しかも、世界のどの宗教が説いていることとも異なっている。先輩達は光り輝く天使にもなっていないし、呪われた小悪魔にもなっていない。人相や容貌だけでなく、強さも弱さも、賢さも愚かさも携えた生前のその人そのままである。予想もしなかった体験に、いかに軽薄な人間も、或いはいかに愚かしい人間も、畏敬の念に打たれて、いっぺんに慎み深い心境になってしまうのではないかと想像される。
 事実、一時的にはそういうことになるかも知れない。が、時が経つにつれてその感激が薄らいで、かつての本性が再び頭をもたげてくるものらしい。それは、交霊会に出て来るスピリットの言動から十分に窺い知ることが出来る。
 ここで話が少し後戻りするが、そうした新しい環境での生活が始まる前に、スピリットは一種の睡眠状態を体験するらしい。睡眠時間の長さは様々で、ほんのうたた寝程の短時間の場合もあれば、何週間も何ヶ月もかかる場合もある(注2)。
 ロッジ卿のご子息のレーモンドは六日間(地上の日数にして六日に相当する時間)だったという。私がスピリットから聞いたものにも、この程度の期間のものが多いようであるが、意外なのは、スピリチュアリズムの先駆者であるフレデリック・マイヤースが、かなりの期間、無意識状態のままだったことである。
 私の推察では、睡眠期間は地上時代の精神的体験や信仰上の先入観念が大きく作用するもののようである。つまりこの悪影響を取り除く為の期間であって、その意味では、期間が長いということはそれだけの睡眠が必要ということになる。従って幼児は殆ど睡眠を取る必要はないのではあるまいか。
 これは私の推測に過ぎないが、いずれにせよ、死の直後とその後の新しい環境での生活との間には、大なり小なり〝忘却〟の期間があるということは、全ての通信が一致して述べていることである。


 (注1)-Edmund Gurney (1847~1888) 古典学者であり、音楽家であり、医学研究家でもあるという多才な人物。二十七歳から三十一歳にかけての五年間に集中的に心霊実験会に出席して手応えを得ていた筈であるが、直ぐには公表せず、一年後に設立されたSPR(心霊研究協会)の会報にそれを掲載し、現在でもSPR自慢の貴重な資料となっている。もっとも、スピリチュアリズムの観点からすると隔靴掻痒の感は拭えない。
 ガーニーの存在価値が発揮されたのは寧ろ死後のことで、複数の霊媒を通じて自動書記で全く同じ内容のメッセージを送ってきて、その付帯状況から判断して、ガーニーの個性存続を立証するものとなっている。

 (注2)-死者のスピリットは、他界直後は暫く睡眠状態に入るのが通例である。これは、地上に誕生した赤ん坊が乳を飲む時以外は眠っているのと同じで、その間に新しい生活環境への適応の準備をしているのである。従って、幽体離脱(体外遊離)が自在に出来る人を除いては、眠った方がいいのである。ところが、戦争や事故で、あっという間に死んだ場合など、怨みや憎悪という激しい感情を抱いたまま死んだ場合には、その感情が邪魔をして眠れず、従って霊的感覚も芽生えないので、いつまでも地上的波動の中でさ迷うことになる。これを地縛霊といい、その種のスピリットの出す波動が地上の生者に様々な肉体的並びに精神的障害をもたらしていることが明らかとなってきた。
 その地縛霊を霊媒に乗り移らせて司会者(さにわ)が霊的実相を語って聞かせると、言いたいことを散々言った後、なんだか眠くなって来た、と言い出すことが多い。激しい感情の波動が収まって、魂が休息を求めるようになるのである。すると大抵、肉親や親戚・友人など、地上で親しくしていた故人の霊姿が見えるようになる。ここまで来ると、所謂〝成仏〟出来る条件が整ったことになる。
 同じく睡眠でも、キリスト教の〝最後の審判〟説を本気で信じていた人間によく見られる睡眠は実に厄介である。このドグマはローマ帝国がキリスト教を国教とした後で拵えられたもので、啓示でもなんでもない。地球の終末に全スピリットが集められて、天国へ行く者と地獄へ行く者との〝名簿〟が読み上げられる-その日までは墓場で眠っている、というのであるが、これを幼児期から聞かせられて育った者は、魂の髄までそう信じている為に、呼び起こしても〝(地球の終末を告げる)ラッパはもう鳴ったのか〟と聞き返し、まだだ、そんなものはいつまで経っても鳴らないと説き聞かせても、又眠ってしまう。嘘のような話であるが、西洋の霊界通信の中には大抵そういう話が出て来る。信仰は自由かも知れないが、間違った自由は死後、大変な代償を払わされる。