それと同じで、死後の世界にも、地上の物質に相当する〝もの〟が存在することは間違いないらしい。それを生み出す〝合成化学〟というものが存在し、それを専門としている高級霊がいるらしい。彼等にとってはその操作はいとも簡単で、その片鱗は物理実験における〝物質化〟で見せてくれている。
 ただ、それがいかなるメカニズムで行われているかとなると、その専門のスピリットには分かっていても、一般のスピリットに説明を求めるのは酷であろう。我々も引力とは何か、電気とは何か、磁気とは何かを子供から訊ねられると困るのと同じである。
 オリバー・ロッジの『レーモンド』の中でレーモンドが死後の環境の構成物質について説明しているところがある(注1)。レーモンドは自分なりの物理学を述べているが、それはあくまでもその時点でのレーモンドが置かれた界層での話であって、それより上の界層では又別の物理学が存在するかも知れないのである。
 レーモンドによれば、霊界の化学者には何でも拵えることが出来ること、低級霊でもアルコールやタバコの成分のエキスを拵えることが出来、その味が忘れられない中毒者がいる、といったことまで述べている。こうした突拍子もない話が唯物論者に攻撃の材料を与えてしまっているが、私に言わせれば、突拍子もないことに思えるのは地上の環境とあまりに似過ぎているからであろう。霊界へ行った本人にとってはそういう現実が目の前にあるわけである。それを正直に、そして、臆することなく述べている点に、私は寧ろ信憑性を見るのである。
 批判的意見で一番多いのは、霊界通信に描かれている世界があまりに現実的過ぎるということである。これを言い換えれば、そう批判する人達がこうあって欲しいと心に描いているものとは違っていると言っているようなものである。そういう人達に申し上げたいのは、この地上世界にも、本当はこうあってくれたらいいのにと思うことで現実的にはそうはなっていないことが幾らでもある、ということである。
 仮にその〝現実性〟を返上して、ではどうあれば気に入って頂けるのかを検討してみると、これは実に厄介なことになる。ただの水蒸気のように、空中をふわりふわりと漂っているような存在であればいいのであろうか。身体もなく、個性もないということは、消滅してしまったということと同じである。ところが、個性がちゃんと残っていることは完全に証明済みなのである。
 仮に幼い時に亡くした我が子が個性を失って、笑顔も見せずヤンチャもしない完全無欠な存在となっているとしたら、母親はそのことを喜ぶだろうか。やはり地上時代のままの小僧らしい、はなたれ小僧のままでいてくれた方が嬉しいのではなかろうか。が、それは、地上と同じ現実味と個体性を基本として営まれている生活環境の下でしか有り得ないことである。
 物質的固体性を当然のこととして現実味のある生活があることは、確かに想像しにくいことではある。しかし、固いといい柔らかいといい、全ては相対性の問題であることを忘れてはならない。
 例えば、どこかにこの物質界より一千倍も濃淡で鈍重な環境の世界があると仮定しよう。そこの生活者にとって、その環境は、我々が地上環境に対して感じているのと同じ程度に感じられる筈である。そして、もしもそこの住民がこの地球を訪れて地上生活を直接体験したならば、あまりの軽快さと流動性と柔軟さに驚いて、これで果して実感を得ているのだろうかと疑うことであろう。我々が地上という環境にあってそれなりの実感を得ていることまでは想像が及ばないであろう。
 それと同じ相対関係を死後の世界に当てはめて考えれば、我々人間にとっては蒸気か影のようにしか思えないスピリットも、その環境にあっては、我々が物的環境に実体があるように感じ取る機能を具えているように、霊体には霊的環境を実体あるものとして感じ取る機能が具わっているのである(注2)。

 


 (注1)-『レーモンド』から二ヶ所紹介しておく。
 《僕(レーモンド)が今一番伝えたいと思うのは、こちらへ来て最初に置かれた環境のことです。最初の内は頭の中が混乱してしまいました。でも、一つ有り難かったことは、環境が地上と同じように実質があって固いということで、そのお陰で早く環境に馴染むことが出来ました。
 僕にとって今の一番の課題は、そうした環境が物理的に何で構成されているかということです。まだ本当のことは分かっていないのですが、一つの理論はもっています。と言っても、これは僕自身が考え出したものではなく、折に触れて聞いていたことから結局はこうではないかと推論しているに過ぎませんけど・・・・
 よく、霊界の環境は自分の思ったことが具象化したものだと言う人がいますが、これは間違っています。僕自身もそう考えた時期がありました。例えば建物も花も木も大地も皆意念によって造られたものだと考えるわけです。無論、これにも半分の真理はあるのですが、それで全部が片付くわけではありません。つまりこういうことです。
 地球から一種の化学的成分がひっきりなしに上昇していて、これが上昇するにつれて、色々と変化して霊界に定着し、それが霊界に実質性を与えるというわけです。無論今僕が置かれている環境について述べているだけですけど・・・ですが、地球から何かが放射されて、それが霊界の木や花に実質感を与えていることには確信をもっています。それ以上のことはまだよく分かりません。目下勉強中というところです。まだ時間が掛かるでしょう》
 又別のところで-
 《僕の身体も地上にいた時とよく似ています。夢かも知れないと思って時々つねっていることがあるのですが、やはり痛いです。最も肉体程痛くはないですけど・・・内臓は肉体とは違うようです。同じであるわけがないでしょう。しかし、外形はどう見ても肉体そっくりです。ただ、動きが肉体より自由です》

 (注2)-我々人間は今どっぷりと物質的環境に浸って生きているので、それをごく当たり前と思い込んでいるが、では生まれた瞬間からそれに適応出来たのかといえば、極めて頼りない。そして危なっかしい期間があったわけである。生命を繋ぐものは〝呼吸〟しかなく、鼻をつままれたら、それきり死んでしまうところだった。出産の過程でもたつくと死産となる。無事生まれても、呼吸すること以外には、自分一人では何も出来なかったことを思い起こす必要がある。それからの二、三年間は、物的環境に適応する為の必死の努力の連続だった。
 最近は脳生理学の発達によって、幼児期の手足の運動が脳を刺激して、神経網の発達を促していることが分かってきた。それは言い換えれば物的環境への適応能力の発達であって、更に言い換えれば、それを当たり前と思うようになる訓練をしたようなものである。霊的なものが理解出来なくなる原因の一つはそこにある。