以上が、人類の未来をより明るいものにする為にまず改めねばならないと私が考えている点の一つである。それに比べれば、これから述べるもう一つの点は、さして大きな問題ではないかも知れない。改めるというよりは、観点を少し変えるだけのことである。
 よく知られている通り、イエスが地上で生活したのは、バイブルの記述から推定する限り、僅か三十三年間であり、捕縛から処刑、そして蘇りまでは一週間足らずに過ぎない。にも係わらず、総体的にみてキリスト教の中心はその悲劇的な〝死〟にあり、死に至るまでの美しい生涯にはあまり重きを置いていない。双方とも重大ではあるが、前者に重点を置き過ぎ、後者の扱い方が軽過ぎるというのが私の見解である。
 確かにイエスの死は美しく、感動的である。しかし、真理の為に身を犠牲にした例は、なにもイエス・キリスト一人ではない。それに匹敵する例を歴史の中に拾えば、何十人でも挙げることが出来る。が、その生き様-生涯を一貫して流れる隣人愛、心の広さ、無私の心、勇気、理性的判断力、進歩性に焦点を当てた時、そこには超人的ともいえる程の群を抜いた人物像が浮かび上がって来る。新約聖書に記録されている断片的な、それも翻訳された、間接的な資料が描いているものなのに、我々はただただ深い畏敬の念に満たされるのである。かのナポレオンでさえこう語っている。

 「・・・・その点、キリストは別格だ。キリストに関することの一つ一つが私には驚きである。その精神の高邁さには不意を突かれたような驚きを覚えるし、その意志の気高さには戸惑いすら感じる。キリストとこの世的なものとの間には、まず比較すべきものが見出せない。全く別格なのだ。キリストに近付く程、そしてキリストの生き様を細かく見れば見る程、全てにおいて私には手の届かない存在であるように思えてくる」

 実は、それ程の高級霊がこの地上に降誕した本当の目的は、ナポレオンをそこまで感嘆させる程の大人物を、魂を鼓舞する見本として人類に垂示することにあったと私は考える。もしも人類が、身代わりの犠牲だの堕罪だのといった空想上の教義やそれに纏わる謎めいた議論にうつつを抜かさずに、キリストの人物像そのものを手本とする努力を真剣に続けてきていたならば、今日の人類の文化と生き甲斐ある人生のレベルがずっと高度のものとなっていたことであろう。理性と道徳性の欠片もない教義こそが、最高の知性と人格を具えた人物をキリスト教に反撥させ唯物主義へと追いやった元凶だったのである。真理への憧憬の本能がどうしても承服出来ないものと葛藤している内に、真実なるもの、美なるものを失っていったのである。
 キリストの最後は確かにその気高い生涯に相応しいものであり、有終の美を飾ったと言えるかも知れない。しかし、人類の宗教にとっての永続性ある基盤を遺してくれたのは、その生き様だった。もしも人類がそれを日常生活における行為と宗教の規範として仰いで来ていたら、後世に生じた宗教戦争も、内部の権力抗争も、宗教間の対立による悲劇も、よしんば全面的には回避されなかったとしても、少なくとも最小限に留まっていたことであろう。