先に私は、問題点として挙げた三つの課題、すなわち旧約聖書からの卒業、キリストの〝死〟よりも〝生〟をもっと重要視すべきであること、そして現代の宗教の基盤とすべきものとしての新しい啓示の内、絶対的根拠をもって主張出来るのは、最後に挙げた新しい啓示のみであると述べたが、これは私があえて遠慮がちに述べたものである。最初に挙げた旧約聖書の問題はあくまでも私個人の見解であるが、次のキリストの実像とその教えの本質については、霊界通信でも度々取り上げられているテーマである。
 霊界通信は、通信霊が今霊界で置かれている位置によって視点が異なるし、更には、地上時代に吹き込まれた信仰が先入観となって根強く残っていることもある。が、そうした点を考慮しつつ信頼のおける通信を読んでみて、第一に言えることは、キリストによる罪の贖い(贖罪説)は全然といってよい程説いていないということである。
 キリストが地上人類として空前前後の最高級霊の降誕であることは異口同音に認めている。その意味では確かに〝神の子〟と呼ぶに相応しいが、我々も皆同じく神の子であり、ただ、キリストの方がより神に近い存在であったというに過ぎないとしている。
 死後そのキリストの霊とのお目通りが許されるのは、ごくごく稀なことに属するという。昼となく夜となく、数え切れない人が他界していっていることを思えば、それは当然のことであろう。その内我々も他界するわけであるが、仮にお目通りが叶えられたとしたら、キリストはたとえようもなく優しい、同情心に溢れた、力強い指導者であると同時に、親しみのある先輩霊の一人でもあろう。そのキリストの霊的影響が、姿は見えなくても、地上の全存在に及んでいるという。地球圏に属するあらゆる界層の中心的存在なのである。
 次の第二章ではスピリチュアリズムを本格的に扱うことにするが、その前に、先の二点をもう一度おさらいをしておきたい。
 旧約聖書の影響もキリストの贖罪死の問題も、致命的という程重大な問題ではない。そういうものに関係なく、新しい発展が次々となされていくことであろう。そもそも、古くから続いている宗教的慣習は、そう一気に変えられるものではない。ましてや神学者が会議を開いて、旧約を書棚の奥に仕舞い込んでバイブルは新約のみとする、といった英断が下されるなどといったことは望むべくもないことである。同じく、キリストの扱い方においても、教会はその〝死〟に重きを置き過ぎていた、といったことが正式に表明されることも、まず有り得ないことであろう。まだまだキリスト教会の道徳的勇気は、その高さにまで至っていない。