フィロソファスと名乗る霊が語る。
 「地上世界の思想的指導者達は祈りというものについての信仰を完全に失っております。今こそ祈りを必要としております。単に決まり文句を繰り返すことではありません。意念の傾注であり、高級霊の援助を求める為の祈りです。祈りとはきっと救いに来てくれることを信じた魂の真剣な叫びであり、型にはまった言葉の繰り返しではありません」

 インペレーターに代わる。
 「現代の危機は真剣な祈りを必要としております。祈りと言ってもクリスチャンの間で神への挨拶として当然の如く使用されている古臭い決まり文句(主の祈り)の繰り返しのことではありません。そうした外部へ向けての行為は必要ないのです。悩める魂の内なる叫び-それだけで、ここぞという時の援助と慰めを呼び寄せるのです。祈りとは要するに〝切望〟であればよいのです。背後霊による霊的援助の下に高き理想を求める魂の努力です。但し、祈りは瞑想界の内部までは届きません」

 思念が客観性を持つことが有り得るかとの質問に対して-
 「我々にとっては思念そが実体であり、考えたことがそのままあなた方にとっての形体と実質と同じものを形成します。崇高な魂を具えた人の中には、精神的には、地上にありながら自ら拵えた観念の世界で暮らしている人が少なくありません。詩人、劇作家、小説家などは自分自身の世界を現実に拵えます。皆さんも思念を投射していることは、ご自分で想像しておられる程珍しいことではありません。
 我々の世界では思念の波長の合わない性質の霊とは生活を共にすることが出来ません。交わる相手の霊的本性と個性とが直ぐに知れます。〝場所〟は関係ありません。〝状態〟が全てです。個性がそれ相応の環境を拵えます。そして(瞑想界に至るまでの)試練の境涯において、霊としての個性が形成されていきます。行為の一つ一つが永続性のある個性と、それ以後の生活の場を拵える働きをします。鍛練のどの段階においても、それ相応の義務というものが割り当てられ、それを正しく遂行して行くことが、霊性を発達させ進化させます。かくして霊が鍛えられていく過程は地上においても霊界においても、形式こそ違っても実質的には類似しております」

 「霊体にも肉体と同じ機能が具わっており、更に地上とは縁のない別の能力も具わっております。霊体には神性が内在しており、祈りと内省の時を多く持ち、実生活における義務を誠心誠意果たすことによって、その神性が発達します。ものは使用する程強化されるという原理によってそうなるのです。それが普遍的な摂理なのです。
 一段と高級な霊になると、地上の大気の中ではほんの短い時間しか滞在出来ません。時にはこの交霊会の場にも近づけないことがあります。私も今はこの霊媒から遠く離れた位置にいます。精神的並びに肉体的条件のせいで、これ以上近付くことが出来ません。体調を崩している時は近付けません。最近他界したばかりの霊の方が容易に近付けます。しかし、我々は遠い距離からでも影響力を行使することが出来ます。我々(高級なスピリット)にとっては時間も空間もありません」