続いてモーゼスは通信の内容に(通信霊によって)矛盾するところがあることを指摘してからこう尋ねた。
-あなたはキリストの神性(神であること)、バイブルの不謬性(その内容は全て神の絶対的な言葉であること)、及び再生説を否定なさると理解してよろしいでしょうか。

 「初めの二つはつまるところ神学的教義に帰する問題であり、もう一つはその霊の未来への洞察力の問題である。イエスを神であるとし、バイブルを全て神の声であるとするのは神学の領域内でそう考えているに過ぎません。そうした誤った信仰を抱いた霊が死後何百年何千年経ってもそう思い続けていることは、けっして有り得ないことではない。致命的という程の害にもならないので、指導霊は他のもっと大切なことを教えることに専念し、そうした地上時代の信仰や思想はとりあえず休眠状態に置いておきます。
 ところが、その霊が地上圏へ連れて来られると、そうした休眠中の古い考えが目を覚まして、かつてと同じように支配し始める。これは古い記憶の世界へ戻ることによって生じる必然の結果で、交霊に出現する霊が面影や癖、衣服まで地上時代と同じものを再現するのと原理は同じです。
 同じ原理は、地上生活でもお馴染みであろう。久しく忘れていた感覚に触れて、昔の記憶が呼び覚まされることがあるであろう。一輪の花、一場の光景を見て古い思い出が甦って来ることがある。霊が地上へ戻って思い出の中に浸ると、完全に拭い去られていない誤った教義や信仰が息を吹き返し、精神を支配してしまうのである。
 であるから、霊が神学的な話を持ち出したからといって、それだけでその通信の価値をうんぬんすべきではない。よほど霊力のある、しっかりとした霊でない限り、列席者の思念によって影響され、霊媒の潜在意識にある強い思想・信仰に簡単に左右されます。
 未発達霊は貴殿が既に間違いであることを理解している教義を大真面目で説くことがある。霊といっても肉体を棄てたというに過ぎず、間違いに中々気付かないものである」

-間違った教理を信じ切っている霊が何百年何千年とそう思い込んだままの状態であると聞いて驚きを禁じ得ません。それはよくあることなのでしょうか。

 「そう滅多にあるものでもないが、霊媒を通じて喋りたがる霊は往々にして大して高度な悟りに到達していない者達である。理解力に進歩のない連中である。請われもしないのに勝手に地上へ戻って来るということ自体が、あまり進歩的でないことの証左といえよう。中でも、人間の拵えた教理に雁字搦めにされたまま戻って来る霊が最も進歩が遅い。
 真の啓示は人間の理解力に応じて神自ら啓示なさるものである。数ある地上の教説や信仰は大なり小なり誤りが見られる。故に(それが足枷となって)進歩が遅々としている者が実に多く、しかも、自らはその誤りに気付かぬのである。そうした類の霊が徒党を組み、その誤りが更に新たな誤りを生んで行くことがよくある。かくして無知と偏見と空理空論が下層界に蔓延し、人間にとってのみならず、我々霊側にとっても厄介なことになっている。
 と言うのも、彼等の集団も彼等なりの使者を送って人間界をかく乱せんとするのです。彼等は必ずといってよい程敬虔な態度を装い、勿体ぶった言葉を用いる。それがいつしか進歩を邪魔し真理を窒息させるように企んでいるのです。魂の自由を束縛し真理への憧憬を鈍らせるということにおいて、それは断じて神の味方ではなく敵対者の仕業である。
 霊の再生の問題はよくよく進化した高級霊にして初めて論ずることの出来る問題である。最高神のご臨席の下に神庁において行われる神々による協議の中身については、神庁の下層の者にすら知り得ない。正直に言って、人間にとってあまり深入りせぬ方がよい秘密もあるのである。その一つが、霊の究極の運命である。神庁において神議(はか)りに議られし後に一個の霊が再び肉体に宿って地上へ生まれるべきか、それとも否か、そのいずれの判断が下されるかは誰にも分からない。誰にも知り得ないのである。守護霊さえ知り得ないのである。全ては良きに計らわれるであろう。
 既に述べたように、地上で広く喧伝されている形での再生(機械的輪廻転生)は真実ではありません。又偉大なる霊が崇高な使命と目的とを携えて地上へ降り、人間と生活を共にすることがあることは事実です。他にも我々の判断に基づいて広言を避けている一面もある。まだその機が熟していないと見ているからです。霊ならば全ての神秘に通じていると思ってはなりません。そう広言する霊は、自ら己の虚偽性の証拠を提供しているに他ならない」

 「霊界での仕事は多種多様です。大神が教え給う崇高な真理をより多く学び取り多く理解すること。礼拝と仰讃の祈りを捧げること。心優しき霊に真理と進歩を授けること。悩める心弱き霊達への援助活動。自らの知性の開発。霊性の陶治。愛と知識の進歩。慈悲の行為。宇宙の進歩の研究。宇宙エネルギーの操作。以上、要するに、不滅の存在である霊の渇望を知性と愛の両面において充実させることと言えよう」

 「界層といえば人間は地上と同じような〝場所〟を想像する。多分それ以外には想像のしようがないのかも知れない。
 が、ご承知の通り、地上においても、道徳的並びに知的には同じ生活環境にありながら、霊的徳性と精神的美質において他に抜きん出ている人がいるものです。
 霊性が自然に引き寄せられる状態ないし環境というものがあり、その環境ないし界層が更に幾つもの区域に分かれている。魂同士は互いが追求するものの共鳴性、気性の類似性、前世での体験の共通性、ないしは今携わっている仕事の同一性によって引かれ合う。思索より行動に重点を置く者もいれば、行動より思索に重点を置く者もいる。そうした違いはあっても、引かれ合う者同士は霊格の高さにおいては同じなのです。
 各界層に隔たりがあるのはもとよりのことで、それ独自の性格と特質を具えております。地上との違い程大きくはないが、それぞれに相違点がある。肉体が無いことから仕事の種類は異なって来るが、一人一人に為すべき仕事があります。地上世界のような時間も空間もない。身体の為の必需品というものはない。霊体のエネルギーは肉体のそれより凝集性が強く、又、自己の為より他の為に使用されます」

-食事はとりますか。運動はどうなりますか。

 「人間が摂取するものとは異なります。我々の身体は空間に瀰漫している霊的エーテルによって維持されており、その点は人間の霊的身体も同じです。普遍的な霊の養分、エネルギー源であり、肉体のあるなしには関係ありません。
 運動は念力だけで事足ります。親和性があれば引かれ合い、なければ反発し合い、又、こちら側の欲求、ないしはこちら側の存在を望む相手側の欲求によっても引かれ合います。
 霊的界層は〝状態〟であって、地上でいうところの〝場所〟ではない。そこに住む霊は人間のように時間と空間の条件には支配されません。住民は一地域に閉じ込められているのではない。住民のもつ道徳的、知的、並びに霊的な状態によって、異なる界層が生じております。つまりアフィニティ(同じ霊系に属する親和性の強い霊同士)が集まり、その共鳴性に溢れた交わりの中に喜びを味わっている。隣人だから、近所だからということで交わるのではなく、性向と目指す目的の類似性によって近付き合うのです。
 高い界層には不浄な者は入れません。低い界層に集まるのは教育的指導を必要とする者達であり、その指導は、地上的雰囲気の中で喘いでいる霊の為に一筋の光明をもたらさんとして、光輝溢れる住処を後にして降下して来る高き界層の霊から授かります。
 最初の三つの界は地上近くに存在する。そこにはそうした(地上的煩悩から脱し切れない)者達がひしめいている。第一の界層は、諸々の原因から、地上へ引き付けられている者です。地上生活では殆ど進歩が得られなかった者達で、必ずしも全面的に悪いわけではなく、ただ、折角のチャンスを利用しないまま無為に過ごした為に、今尚当てもなく迷い続けているのである。
 更には、地上に残した僚友への情愛と親和性の為に、向上する可能性を有しながら敢えて地上圏に留まって援助している者もいる。それに加えて、霊的に若く、初歩的教育の段階にある者、不完全な身体をもって誕生した為に十分な体験を積むことが出来ず、学ぶべきだったことをこれから何とかして学ばねばならぬ者、不可抗力によって寿命を全うせずして地上を去った者がいる。自らの責任ではないとは言え、向上する為にはその埋め合わせをしなければならないのです」

 「我々の所属する界の素晴らしさ-漂う心地よい香気、咲き乱れる愛らしい花々、辺りに広がる嬉しさを誘う景色は、到底、人間的想像の及ぶところではありません」

-そちらの家屋もやはり〝もの〟で出来ているのでしょうか。

 「そうです。但し、人間が考えている〝もの〟とは違います。我々にとって実体が感じられるということであり、人間の粗末な感覚では実感は感じられないでしょう。我々は人間と違って空間の束縛を受けません。光や空気のように自在であり、地上の家のように一定の場所に固定されていません。それでいて生活環境は洗練された霊的感覚のお蔭で、人間が物的環境から受けるのと同じ、実体が感じられます」