自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 私の最初の修行場-岩屋の中での物語は一先ずこの辺で区切りを付けまして、これから第二の山の修行場の方に移ることに致しましょう。修行場の変更などと申しますと、現世式に考えれば、随分億劫な、何やらどさくさした、うるさい仕事のように思われましょうが、こちらの世界の引越しは至極あっさりしたものでございます。それは場所の変更と申すよりは、寧ろ境涯の変更、又は気分の変更と申すものかも知れませぬ。現にあの岩屋にしても、最初は何やら薄暗い陰鬱な所のように感ぜられましたが、それがいつとはなしに段々明るくなって、最後には全然普通の明るさ、少しも穴の内部という感じがしなくなり、それに連れて私自身の気持もずっと晴れやかになり、戸外へ出掛けてそぞろ歩きでもしてみたいというような風になりました。確かにこちらでは気分と境涯とがぴッたり一致しているもののように感ぜられます。
 ある日私がいつになく統一の修行に倦(あ)きて、岩屋の入口まで何とはなしに歩み出た時のことでございました。ひょっくりそこへ現れたのが例の指導役のお爺さんでした。-
 『そなたは戸外へ出たがっているようじゃナ』
 図星をさされて私は少し決まりが悪く感じました。
 『お爺さま、どういうものか今日は気が落ち付かないで困るのでございます・・・。私はどこかへ遊びに出掛けたくなりました』
 『遊びに出たい時には出ればよいのじゃ。ワシがよい場所へ案内してあげる・・・・』
 お爺さんまでが今日はいつもよりも晴々しい面持で誘って下さいますので、私も大変嬉しい気分になって、お爺さんの後について出掛けました。
 岩屋から少し参りますと、モーそこは直ぐ爪先上りになって、右も左も、杉や松や、その他の常盤木のしんしんと茂った、相当険しい山でございます。あの、現界の景色と同一かと仰るか・・・・・左様でございます。格別違ってもおりませぬが、ただ現界の山よりは何やら奥深く、神さびて、ものすごくはないかと感じられる位のものでございます。私達の辿る小路の直ぐ下は薄暗い谷になっていて、茂みの中を潜る水音が、微かにさらさらと響いていましたが、気のせいか、その水音までが何となく沈んで聞こえました。
 『モー少し行った所に大変に良い山の修行場がある』とお爺さんは道々私に話しかけます。
 『多分そちの気に入るであろうと思うが、兎も角も一応現場へ行ってみるとしようか・・・・』
 『どうぞお願い致します・・・・・』
 私はただちょっと見物する位のつもりで軽く御返事をしたのでした。
 間もなく一つの険しい坂を登り詰めると、そこはやや平坦な崖地になっていました。そして四辺にはとても枝ぶりのよい、見上げるような杉の大木がぎっしりと建ち並んでおりましたが、その中の一番大きい老木には注連縄が張ってあり、そしてその傍らに白木造りの、小さい建物がありました。四方を板囲いにして、僅かに正面の入口のみを残し、内部は三坪ばかりの板敷、屋根は丸味のついたこけら葺き、どこにも装飾らしいものはないのですが、ただ全てがいかにも神さびて、屋根にも、柱にも、古い苔が厚く蒸しており、それが塵一つなき、あくまで清らかな環境としっくり融け合っておりますので、実に何ともいえぬ落ち着きがありました。私は覚えず叫びました。-
 『まァ何という結構な所でございましょう!私、こんなところで暮らしとうございます・・・・』
 するとお爺さんは満足らしい微笑を老顔に湛えて、おもむろに言われました。-
 『実はここがそちの修行場なのじゃ。モー別に下の岩屋に帰るにも及ばぬ。早速内部へ入ってみるがよい。何もかも一切取り揃えてあるから・・・・』
 私は嬉しくもあれば、また意外でもあり、言われるままに急いで建物の内部へ入ってみますと、中央正面の白木の机の上には果して日頃信仰の目標である、例の御神鏡がいつの間にか据えられており、そしてその側には、私の母の形見の、あの懐かしい懐剣までもきちんと載せられてありました。
 私は我を忘れて御神前に拝跪(はいき)して心から感謝の言葉を述べたことでございました。
 大体これが岩屋の修行場から山の修行場へ引越した時の実況でございます。現世の方から見れば一片の夢物語のように聴こえるでございましょうが、そこが現世と幽界との相違なのだから何とも致し方がございませぬ。私共とても、幽界に入ったばかりの当座は、何やら全てが頼りなく、又呆気なく思われて仕方がなかったもので・・・。しかし段々慣れて来るとやはりこちらの生活の方が結構に感じられて来ました。僅か半里か一里の隣の村に行くのにさえ、やれ従者だ、輿物(のりもの)だ、御召換(おめしがえ)だ・・・・、半日もかかって大騒ぎをせねばならぬような、あんな面倒臭い現世の生活を送りながら、よくも格別の不平も言わずに暮らせたものである・・・。私は段々そんな風に感ずるようになったのでございます。何れ、あなた方にも、その味がやがてお判りになる時が参ります・・・。