自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 山の修行場へ移ってからの私は、何とはなしに気分がよほど晴れやかになったらしいのが自分にも感ぜられました。主なる仕事はやはり御神前に静座して精神統一をやるのでございますが、ただ合間々々に私はよく室外へ出て、四辺の景色を眺めたり、鳥の声に耳をすませたりするようになりました。
 前にも申し上げた通り、私の修行場の所在地は山の中腹の平坦地で、崖の上に立って眺めますと、立木の隙間からずっと遠方が眼に入り、中々の絶景でございます。どこにも平野らしい所はなく、見渡す限り山又山、高いのも低いのも、又色の濃いのも淡いのも、色々ありますが、どれも皆樹木の茂った山ばかり、尖った岩山などはただの一つも見えません。それ等が十重二重に重なり合って絵巻物をくり広げているところは、全く素晴らしい眺めで、ツイうっとりと見惚れて、時の経つのも忘れてしまう位でございます。
 それから又あちこちの木々の茂みの中に、何ともいえぬ美しい鳥の音が聴こえます。それは、昔鎌倉の奥山でよく聴き慣れたホトトギスの声に幾分似たところもありますが、しかしそれよりはもっと冴えて、賑やかで、そして複雑な音色でございます。ただ一人の話相手とてもない私はどれだけこの鳥の音に慰められたか知れませぬ。どんな種類の鳥かしらと、或る時念の為にお爺さんに伺ってみましたら、それはこちらの世界でもよほど珍しい鳥で、現界には全然棲んでいないと申すことでございました。もっとも音色が美しい割に毛並みは案外つまらない鳥で、ある時不図近くの枝にとまっているところを見ると、大きさは鳩位、幾分現界の鷹に似て、頚部に長い毛が生えていました。幽界の鳥でもやはり声と毛並みとは揃わぬものかしらと感心したことでございました。
 もう一つここの景色の中で特に私の眼を惹いたものは、向かって右手の山の中腹に、青葉隠れにちらちら見える一つの丹塗りのお宮でございました。それはホンの三尺四方位の小さい社(やしろ)なのですが、見渡す限りただ緑の一色しかない中に、そのお宮だけがくっきりと朱(あか)く冴えているので大変に目立つのでございます。私の心は次第に、そのお宮に引きつけられる様になりました。
 で、ある日お爺さんが見舞われた時私は訊ねました。-
 『お爺さま、あそこに大そう美しい、丹塗りのお宮が見えますが、あれはどなた様をお祀りしてあるのでございますか』
 『あれは龍神様のお宮じゃ。これからはワシにばかり頼らず、直接に龍神様にもお頼みするがよい・・・・』
 『龍神様でございますか?』私は大変意外に感じまして、
 『一体それはどういう神様でございますか?』
 『そろそろ汝も龍神との深い関係を知っておかねばなるまい。よほど奥深い事柄であるから、とても一度で腑には落ちまいが、その中段々判って来る・・・・・』
 お爺さんはあたかも寺子屋のお師匠さんと言った面持で、色々講釈をしてくださいました。お爺さんはこんな風に説き出されました。-
 『龍神というのは一口に言えば元の活神、つまり人間が現世に現れる前から、こちらの世界で働いている神々じゃ。時として龍の姿を現すから龍神には相違ないが、しかしいつもあんな恐ろしい姿で居るのではない。時と場合で優しい神の姿にもなれば、又一つの丸い球にもなる。現にワシなども龍神の一人であるが、汝の指導役として現れる時は、いつもこのような、老人の姿になっている・・・・。ところで、この龍神と人間との関係であるが、人間の方では、何も知らずに、最初から自分一つの力で生まれたもののように思っておるが、実は人間は龍神の分霊、つまりその子孫なのじゃ。ただ龍神はどこまでもこちらの世界の者、人間は地の世界の者であるから、幽から顕への移り変わりの仕事は誠に困難で、長い長い歳月を経て漸くのことでモノになったのじゃ。詳しいことは後で追々話すとして、兎に角人間は龍神の子孫、汝とても元へ遡れば、やはりさる尊い龍神様の御末裔なのじゃ。これからはよくその事を弁えて、あの龍神様のお宮へお詣りせねばならぬ。又機会を見て龍宮界へも案内し、乙姫様にお目通りをさしてもあげる』
 お爺さんのお話は、何にやら回りくどいようで、中々当時の私の腑に落ち兼ねたことは申すまでもありますまい。殊にをかしかったのが、龍宮界だの、乙姫様だのと申すことで、私は思わず笑い出してしまいました。-
 『まァ龍宮などと申すものが実際この世にあるのでございますか。-あれは人間の作り事ではないでしょうか・・・・』
 『決してそうではない』とお爺さんはあくまで真面目に、『人間界に伝わる、あの龍宮の物語は実際こちらの世界で起こった事実が、幾分尾ひれをつけて面白おかしくなっているまでじゃ。そもそも龍宮と申すのは、あれは神々のお寛ぎ遊ばす所・・・言わば人間界の過程の如きものじゃ。前にも述べた通り、こちらの世界は造りつけの現界とは異なり、場所も、家屋も、又姿も、皆意思のままにどのようにも変えられる。で、龍宮界のみを龍神の世界と思うのは大きな間違いで、龍神の働く世界は、他に限りもなく存在するのである。が、しかし神々にとりて何よりも嬉しいのはやはりあの龍宮界である。龍宮界は主に乙姫様のお指図で出来上がった、家庭的の理想境なのじゃ』
 『乙姫様と仰ると・・・・・』
 『それは龍宮界で一番上の姫神様で、日本の昔の物語に豊玉姫(とよたまひめ)とあるのがつまりその御方じゃ。神々のお好みがあるので、他にも様々の世界があちこちに出来てはいるが、それ等の中で、何と申しても一番立ち優っているのはやはりこの龍宮界じゃ。全てがいかにも清らかで、優雅で、そして華美な中に何ともいえぬ神々しいところがある。とてもワシの口で述べ尽くせるものではない。汝も成るべく早く修行を積んで、実地に龍宮界へ行って、乙姫様にもお目通りを願うがよい・・・・』
 『私のようなものにもそれが叶いましょうか・・・・』
 『それは勿論叶う・・・・イヤ叶わねばならぬ深い因縁がある。何を隠そう汝は元々乙姫様の系統を引いているので、そちの龍宮行は言わば一種の里帰りのようなものじゃ・・・・・・』
 お爺さんの述べる所はまだしっくり私の胸にはまりませんでしたが、しかしそれが一ト方ならず私の好奇心をそそったのは事実でございました。それからの私は絶えず龍宮界の事、乙姫様の事ばかり考え込むようになり、私の幽界生活に一の大切なる転換期となりました。
 が、私の龍宮行きはそれから暫く過ぎてからの事でございました。