自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 今度は入れ代わって、或る事情の為に自殺を遂げた一人の女性との会見のお話を致しましょう。少々陰気くさい話で、お聞きになるに、あまり良いお気持はしないでございましょうが、こう言った物語も現世の方々に、多少の御参考になろうかと存じます。
 その方は生前私と大変に仲の良かったお友達の一人で、名前は敦子・・・・あの敦盛の敦という字を書くのでございます。生家は畠山と言って、大そう由緒ある家柄でございます。その畠山家の主人と私の父とが日頃別懇にしていた関係から、私と敦子さまとの間も自然親しかったのでございます。お年齢は敦子さまの方が二つばかり下でございました。
 お母様が大変お美しい方であった為、お母さま似の敦子さまも眼の覚めるような御器量で、殊にその生際などは、慄(ふる)えつくほどお綺麗でございました。『あんなにお美しい御器量に生まれて敦子さまは本当に幸せだ・・・・』そう言ってみんなが羨ましがったものでございますが、後で考えると、この御器量が却ってお身の仇となったらしく、やはり女は、あまり醜いのも困りますが、又あまり美しいのもどうかと考えられるのでございます。
 敦子さまの悩みは早くも十七、八の娘盛りから始まりました。諸方から雨の降るようにかかって来る縁談、中には随分これはというのもあったそうでございますが、敦子さまは一つなしに皆断ってしまうのでした。それには無論訳があったのでございます。親戚の、幼馴染の一人の若人・・・・世間によくあることでございますが、敦子さまは早くから右の若人と思い思われる仲になり、末は夫婦と、内々二人の間に固い約束が出来ていたのでございました。これが望み通り円満に収まれば何の世話はないのでございますが、月に浮雲、花に風とやら、何か両家の間に事情があって、二人はどうあっても一緒になることが出来ないのでした。
 こんな事で、敦子さまの婚期は年一年と遅れて行きました。敦子さまは後にはすっかりヤケ気味になって、自分は生涯嫁には行かないなどと言い張って、ひどく御両親を困らせました。ある日敦子さまが私の許へ訪れましたので、私から色々言い聞かせてあげたことがございました。『御自分同志が良いのは結構であるが、こういうことは、やはり御両親の許諾を得た方がよい・・・・』どうせ私の申すことはこんな堅苦しい話に決まっております。これを聞いて敦子さまは別に反対もしませんでしたが、さりとて又成る程と思い返してくれる模様も見えないのでした。
 それでも、その後幾年か経って、男の方が諦めて、どこからか妻を迎えた時に、敦子さまの方でも我が折れたらしく、とうとう両親の勧めに任せて、幕府へ出仕している、ある歴々の武士の許へ嫁ぐことになりました。それは敦子さまが確か二十四歳の時でございました。
 縁談がすっかり整った時に、敦子さまは遥々三浦まで御挨拶に来られました。その時私の良人もお目にかかりましたが、後で、『あんな美人を妻に持つ男子はどんなに幸せなことであろう・・・』などと申した位に、それはそれは美しい花嫁姿でございました。しかし委細の事情を知っている私には、あの美しいお顔のどこやらに潜む、一種の寂しさ・・・新婚を歓ぶというよりか、寧ろ辛い運命に、仕方なしに服従していると言ったような、やるせなさがどことなく感じられるのでした。
 兎も角こんな具合で、敦子さまは人妻となり、やがて一人の男の子が生まれて、少なくとも表面には大そう幸福らしい生活を送っていました。落城後私があの諸磯の海辺に侘住居をしていた時分などは、何度も何度も訪れて来て、何かと私に力をつけてくれました。一度は、敦子さまと連れ立ちて、城跡の、あの良人の墓に詣でたことがございましたが、その道すがら敦子さまが言われたことは今も私の記憶に残っております。-
 『一体恋しい人と別れるのに、生き別れと死に別れとではどちらが辛いものでしょうか・・・・。事によると生き別れの方が辛くはないでしょうか・・・・。あなたの現在のお身の上もお察し致しますが、少しは私の身の上も察してくださいませ。私は一つの生きた屍、ただ一人の可愛い子供があるばかりに、やっとこの世に生きていられるのです。もしもあの子供がいなかったら、私などはとうの昔に・・・・』
 現世に於ける私と敦子さまとの関係は大体こんなところでお判りかと存じます。