自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 龍宮界からかねて詳しい指図を受けておりましたので、その時の私は思い切ってたった一人で出掛けました。初対面のこと故、服装なども失礼にならぬよう、日頃好みの礼装に、例の被衣を羽織りました。
 ヅーッとどこまでも続く山路・・・大変高い峠にかかったかと思うと、今度は降り坂になり、右に左にくねくねとつづらに折れて、時に樹木の間から蒼い海原が覗きます。やがて行き着いた所はそそり立つ大きな岩と岩との間を抉り取ったような狭い岐路で、その奥が深い深い洞窟になっております。そこが弟橘姫様の日頃お好みの御修行場で、洞窟の入り口にはチャーンと注連縄が張られておりました。無論橘姫様はいつもここばかりに引き籠って居られるのではないのです。現世に立派なお祠(やしろ)がある通り、こちらの世界にもやはりそう言ったものがあり、御用があれば直ぐそちらへお出ましになられるそうで・・・・。
 『御免遊ばしませ・・・』
 口にこそ出しませんが、私は心でそう思って、会釈して洞窟の内部へ歩み入りますと、早くもそれと察して奥の方からお出ましになられたのは、私が年来お慕い申していた弟橘姫様でございました。打ち見るところお年齢はやっと二十四、五、小柄で細面で、大そう美しい御器量でございますが、どちらかといえば少し沈んだ方で、きりきりとやや釣り気味の眼元には、優れた御気性がよく伺われました。御召物は、これは又私共の服装とはよほど違いまして、上衣はやや広い筒袖で、色合いは紫がかっておりました。下衣は白地で、上衣より二、三寸下に延び、それには袴のようにひだが取ってありました。頭髪は頭のてっぺんで輪を造ったもので、ここにも古代らしい匂が充分に漂っておりました。又お履物は黒塗りの靴みたいなものですが、それは木の皮か何ぞで編んだものらしく、そう重そうには見えませんでした・・・。
 『私はこういうものでございますが、現世に居りました時から深くあなた様をお慕い申し、殊に先日乙姫さまから委細を承りましてから、一層お懐かしく、是非一度お目通りを願わずにはいられなくなりました。一向何事も弁(わきま)えぬ不束者でございますが、これからは末長くお教えを受けさせて頂きとう存じまする・・・・』
 『かねて乙姫様からのお言葉により、あなたのお出でを心待ちにお待ち申しておりました』とあちら様でも大そう歓んで私を迎えてくださいました。『自分とて、ただ少し早くこちらの世界へ引き移ったというだけ、これからは共々に手を引き合って、修行することに致しましょう。どうぞこちらへ・・・』
 その口数の少ない、控え目な物腰が、私には何より有り難く思われました。『やはり歴史に名高い御方だけのことがある』私は心の中で独りそう感心しながら、誘われるままに岩屋の奥深く進み入りました。私自身も山の修行場へ移るまでは、やはり岩屋住まいを致しましたが、しかし、ここはずっと大がかりに出来た岩家で、両側も天井も物凄い程ギザギザした荒削りの岩になっておりました。しかし外面から見たのとは違って、内部はちっとも暗いことはなく、ほんのりといかにも落ち着いた光が、室全体に漲っておりました。『これなら精神統一が上手く出来るに相違ない』餅屋は餅屋と申しますが、私はやはりそんなことを考えるのでした。
 ものの二丁ばかりも進んだ所が姫の御修行の場所で、床一面に何やらふわっとした、柔らかい敷物が敷き詰められており、そして正面の棚みたいに出来た凹所が神床で、一つの丸い御神鏡がキチンと据えられているばかり、他には何一つ装飾らしいものは見当たりませんでした。
 私達は神床の前面に、左と右に向き合って座を占めました。その頃の私はもう大分幽界の生活に慣れて来てみましたものの、兎に角自分より千年あまり以前に帰幽せられた、史上に名高い御方とこうして膝を交えて親しく物語るのかと思うと、何やら夢でも見ているように感じられて仕方がないのでした。