自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 それは確かに、ある年の夏の初め、館の森に蝉時雨が早瀬を走る水のように、喧(かまびつ)しく聞こえている、暑い真昼過ぎのことであったと申します-館の内部は降って湧いたような不時の来客に、午睡する人達も慌てて飛び起き、上を下への大騒ぎを演じたのも道理、その来客と申すのは、誰あろう、時の帝の珍(うづ)の皇子(みこ)、当時築紫路から出雲路にかけて御巡遊中の小碓命(おうすのみこと)様なのでございました。御随行の人数はおよそ五、六十人、いづれも命の直属の屈強の武人ばかりでございました。ついでにちょっと付け加えておきますが、その頃命の直属の部下と申しますのは、いつもこれ位の少人数でしかなかったそうで、いざ戦闘となれば、いずれの土地に居られましても、付近の武人共が、後から後から馳せ参じて忽ち大軍になったと申します。『わざわざ遠方からあまたの軍兵を率いて御出征になられるようなことはありませぬ・・・』橘姫はそう仰っておられました。何処へ参るにもいつも命の御随伴をした橘姫がそう申されることでございますから、よもやこれに間違いはあるまいと存じます。
 それは兎に角、不意の来客としては五、六十人は中々の大人数でございます。ましてそれが日本国中にただ一人あって、二人とはない、軍の神様の御同勢とありましては大変でございます。恐らく森の蝉時雨だって、ぴったり鳴き止んだことでございましょう。ただその際何より好都合であったのは、姫の父君が珍しく国元へ帰っておられたことで、御自身采配を振って家人を指図し、心限りの歓待をされた為に、少しの手落ちもなかったそうでございます。それについて姫は少しお言葉を濁しておられましたが、どうやら小碓命様のその日の御立寄は必ずしも不意打ちではなく、かねて時の帝から御内命があり、言わば橘姫様とお見合いの為に、それとなくお越しになられたらしいのでございます。
 何れにしても姫はその夕べ、両親に促され、盛装してお側にわかり出で、御接待に当てられたのでした。『何分にも年若き娘のこととて恥ずかしさが先立ち、格別のお取持も出来なかった・・・・』姫はあっさりと、ただそれっきりしかお口には出されませんでしたが、どうやらお二人の間を繋いだ、切っても切れぬ固い縁の糸は、その時に結ばれたらしいのでございます。実際又何れの時代を探しても、この御二人程お似合いの配偶は滅多にありそうにもございませぬ。申すもかしこけれど、お姫様は百代に一人と言われる、優れた御器量の日の御子、又お妃は、しとやかなお姿の中に凛々しい御気性を包まれた絶世の佳人、このお二人が一目見てお互いにお気に召さぬようなことがあったら、それこそ不思議でございます。お年輩も、確か命はその時御二十四、姫は御十七、どちらも人生の花盛りなのでございました。
 これは余談でございますが、私がこちらの世界で大和武尊様に御目通りした時の感じを、ここでちょっと申し上げておきたいと存じます。あんな武勇絶倫の御方でございますから、お目にかからぬ中は、どんなにも怖い御方かと存じておりましたが、実際はそれはそれはお優しい御風貌なのでございます。無論御筋骨は優れて逞しうございますが、御顔は色白の、至ってお綺麗な細面、そして少し釣気味のお目元にも、又きりきりと引き締まったお口元にも、殆ど女性らしい優しみを湛えておられるのでございます。『成る程この方なら少女姿に仮装(つく)られてもさして不思議はない筈・・・・』失礼とは存じながら私はその時心の中でそう感じたことでございました。
 それはさて置き、命はその際は二晩程お泊りになって、そのままお帰りになられましたが、やがて帝のお裁可(ゆるし)を仰ぎて再び安芸の国にお降り遊ばされ、その時いよいよ正式に御婚儀を挙げられたのでございました。もっとも軍務多端の際とて、その式は至って簡単なもので、ただ内輪でお杯事をされただけ、間もなく新婚の花嫁様をお連れになって征途に上られたとのことでございました。『こういう場合であるから何処へ参るにも、そちを連れる』命はそう仰せられたそうで、又姫の方でも、愛しき御方と苦労艱難を共にするのが女の勤めと、固く固く覚悟されたのでした。