自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 今度は一つ夫婦のいさかいから、危うく入水しようとした女のお話を致しましょうか・・・。大体夫婦争いにあまり感心したものは少なうございまして、中には側で見ている方が却って心苦しく、覚えず顔を背けたくなる場合もございます。これなども幾分かその類でございまして・・・。
 或る日一人の男が蒼白な顔をして、慌てて社(やしろ)の前に駆けつけました。何事かしらと、じっと見ておりますると、その男はせかせかとはずむ呼吸を鎮めてあえず、こんなことを訴えるのでした。-
 『神様、どうぞ私の一生の願いをお聴き届け下さいませ・・・。私の女房役が入水すると申して、家出をしたきり皆目行方が判らないのでございます。神様のお力でどうぞその足留めをしてくださいますよう・・・。実際のところ私はあれに死なれると甚だ困りますので・・・。私がよそに情婦をつくりましたのは、あれはホンの当座の出来心で、心から可愛いと思っているのは、やはり永年連れ添って来たうちの女房なのでございます・・・。ただあれがあんまり嫉妬を焼いて仕方がございませんから、ツイ腹立ち紛れに二つ三つ頭をどやしつけて、貴様のような奴はくたばってしまえと怒鳴りましたが、心の底は決してそうは思っていないのでございます・・・。あんなことを言ったのは私が悪うございました。これに懲りまして、私は早速情婦と手を切ります・・・。あの大切な女房に死なれては、私はもうこの世に生きている甲斐がありませぬ・・・』
 この男は三崎の町人で、年輩は三十四、五の分別盛りで、それが涙混じりにこんなことを申すのでございますから、私は可笑しいやら、気の毒やら、全く呆れてしまいました。でも折角の頼みでございますから、兎も角も家出した女房の行方を探ってみますと、直ぐにその所在地が判りました。女は油ヶ壺の断崖の上におりまして、しきりに小石を拾って袂(たもと)の中に入れているのは、やはり本当に入水するつもりらしいのでございます。そしてしくしく泣きながら、こんなことを言っておりました。-
 『口惜しい口惜しい!自分の大切な良人(おっと)をあんな女に寝とられて、何で黙っておけるものか!これから死んで、あの女に憑依して仇を取ってやるからそう思っているがよい・・・』
 平生はちょいちょい私のところへもお詣りに来る、至って温和な、そして顔立ちもあまり悪くはない女なのでございますのに、嫉妬の為にはこんなにも精神が狂って、まるきり手がつけられないものになってしまうのでございます。
 見るに見兼ねて私は産土の神様に、氏子の一人がこんな事情になっておりますから、どうぞ然るべく・・・と、お願いしてやりました。寿命のない者は、いかにお願いしてもおきき入れがございませぬが、やはりこの女にはまだ寿命が残っていたのでございましょう、産土の神様の御眷族が、丁度神主のような姿をしてその場に現れ、今しも断崖から飛び込もうとする女房の前に両手を拡げて立ちはだかったのでございます。
 不意の出来事に、女房は思わずキャッ!と叫んで、地面に尻餅をついてしまいましたが、その頃の人間は現今の人間とは違いまして、少しは神心がございますから、この女も直ぐさまそれと気がついて、とんだ心得違いをしたと心から悔悟して、死ぬることを思い止まったのでございました。
 一方私の方ではそれとなく良人の心に働きかけて、油ヶ壺の断崖の上に導いてやりましたので、二人はやがてバッタリと顔と顔を突き合わせました。
 『ヤレヤレ生きていてくれたか・・・何と有り難いことであろう・・・』
 『これというのも皆神様のお蔭・・・これから仲良く暮らしましょう・・・』
 『俺が悪かった、勘弁してくれ』
 『お前もこれからわたしを可愛がって・・・・・』
 二人は涙ながらに、しがみついていつまでもいつまでも離れようとしないのでした。
 その後男はすっかり心を入れ換え、村人からも羨ましがる程夫婦仲が良くなりました。現在でもその子孫は確かかの地に栄えて居る筈でございます・・・・。