自殺ダメ


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 霊訓 W・S・モーゼス著 浅野和三郎訳並評釈

 解説

 近代の霊媒中、嶄然(ざんぜん)一頭地を抽いているのは、何と言ってもステイントン・モーゼスで、その手に成れる自動書記の産物『霊訓』は、確かに後世に残るべき、斯界(しかい)のクラシックである。日本の学界に、その真価が殆ど認められていないのは、甚だ遺憾である。が、原本は中々大部のものであるから、ここには単に要所だけを紹介するに止める。もしも読者にして、ゆっくり味読さるるならば、その分量の少なきを憂えず、得るところ寧ろ甚だ多かるべきを信ずるものである。
 近代の霊媒の中で、モーゼスの如き学者的経歴を有する者は、殆ど一人もない。彼は1839年に生まれ、16歳の時に、ベッドフォードの中学に学んだが、その非凡の学才と勤勉とは、早くも学校当局の間に認められ、幾度か名誉賞を与えられた。1858年オックスフォード大学に移るに及びて、その英才はいよいよ鋒鋩(ほうぼう)を現したが、過度の勉強の為にいたく心身を損ね、病臥数月の後、保養の為に大陸を遍歴すること約一年に及んだ。その中六ヶ月はマウント・アソスのギリシャ僧院で暮らし、専ら静思休養に努めた。後その支配霊インペレーターの告げる所によれば、同僧院にモーゼスを連れて行ったのは、霊達の仕業で、後年霊媒としての素地を作らしむる為であったとの事である。
 二十三歳の時帰国して学位を受け、やがてオックスフォードを離れたが、健康が尚全く優れない為に、医師の勧めに従って、田舎牧師たるべく決心し、アイル・オブ・マンのモーグフォルド教会に赴任した。在職中たまたま痘瘡(とうそう)が流行して、死者続出の有様であったが、モーゼスは敢然として病者の介抱救護に当たり、一身にして、牧師と、医者と、埋葬夫とを兼ねる有様であった。その勇気と忠実と親切とは、当然教区民の絶大の敬慕を勝ち得たが、健康が許さないので、1868年他の教区に転任した。彼はどこへ行っても、優れた人格者として愛慕されたのであるが、たまたま咽喉を病み、演説や説教を医師から厳禁されたので、止む無く永久に教職を擲つこととなった。彼のロンドン生活はそれから始まったのである。
 彼がロンドン大学予備科の教授に就任したのは、1870年の暮で、ここでも彼の人格と、学力とは、彼をして学生達の輿望の中心たらしめた。モーゼスが神霊上の諸問題に、興味を持つことになったのもその前後で、医師のスピーア博士と共に、頻りに死後の生命の有無、その他人生諸問題につきて討究を重ねた。彼の宗教心はあくまで強いのであるが、しかし在来の神学的ドグマは、到底彼の鋭利直截(ちょくせつ)なる研究的良心を充たすに足りなくなったのであった。彼は自身霊媒たる前に、片端から知名の霊媒の実験に臨んだ。即ち1872年、ロッテイ・ファウラアの実験を行い、続いて名霊媒ウィリアムスの交霊会に臨み、次第に心霊事実の正確なることを認むるに至った。その中ふとしたことで、彼自身霊媒能力を発揮した。
 モーゼスの本領は自動書記であるが、しかし彼は、稀に見る多方面の霊媒であった。彼を通じて起こった、主なる心霊の現象を挙げれば、(一)大小の叩音、(二)種々の光、(三)種々の香気、(四)種々の楽声、(五)直接書記、(六)卓子、椅子その他物品の浮揚、(七)物品引き寄せ、(八)直接談話、(九)霊言、等を数えることが出来る。
 かかる霊媒現象が起こりつつある間に、彼は幾多の学界の創立に関与し、殊に1882年、『英国心霊協会』の創立に際しては大いに奔走の労を取り、又1884年、『ロンドン神霊協会』が組織された時には、直ちにその最初の会長に推された。又晩年には、今日尚刊行しつつある『ライト誌』の最初の主筆でもあった。
 彼の晩年には、物理的心霊現象は全然止んだが、しかし自動書記現象は、その最後まで続いた。その中元来あまり健康でなかった彼の体力は、数回のインフルエンザの為に、回復し難き迄に衰弱し、かくて1892年、(明治二十五年)九月五日を以って帰幽した。
 右の如く、彼の経歴には、さして非凡という程の事もないが、しかし彼の優れた人格と、又その行くとして可ならざるなき抜群の才識とは、誠に驚嘆に値するものがあった。彼は如何なる問題でも、これを吸収消化せずという事なく、常に渾身の努力を挙げて、その研究にかかった。なかんずく彼が畢生の心血を注いだのは心霊問題で、これが為には、如何なる犠牲をも払うことを辞せなかった。彼が多忙な生活中に、閑を割いて面会を遂げた政治界、貴族社会、学界、文学界、芸術界等の大立物のみでも幾百千というを知らなかった。要するに彼は一再の心霊問題に関して、当時の全英国民の顧問であり、又相談相手であった。
 一個の人格者としてモーゼスも、又間然する所がなかった。公平で、正直で、謙遜で、判断力に富んでいると同時に、又絶大の同情心にも富んでいた。彼はいかなる懐疑者、煩悶者をも、諄々として教へ導くに努めた。当時一般世人から軽蔑されたスピリチュアリズムが、漸く堅実なる地歩を、天下に占めるに至ったことにつきてはモーゼスの功労が、どれだけ拠って力あるか測り知れないものがある。彼は正しくこの界の権威であると同時に、大恩人でもあった。
 さてこの『霊訓』であるが、これにつきては、モーゼス自身が、その序文の中で細大を物語っているから、参考の為に、その要所を抄出することにする。-
 『本書の大部分を構成するものは、所謂自動書記と称する方法で受信したものである。これは直接書記と区別せねばならない。前者にありては、霊媒はペン又は鉛筆を執るか、もしくは片手をプランセットに載せるかすると、通信が本人の意識的介在なしに書き綴られるのである。後者にありては霊媒の手を使わず、時とすれば、ペン又は鉛筆をも使わずに、文字が直接紙面に現れるのである・・・。
 これ等の通信は今から約十年前、1873年の3月30日を以って、私の手を通じて現れ始めた。私がスピリチュアリズムに親しんでから約一年後である。私はその以前から、色々の通信を受けたが、この自動書記が便利であり、又保存の為にも都合がよいので、特にこれを選んだ次第である。ラップ(叩く音)を以って一時ずつ書き綴るのは煩わしきに過ぎ、又入神状態に於いて口で喋るのは、その全部を保存し難く、又潜在意識の闖入(ちんにゅう)を、充分に防止し得るとは保証し難い所がある。
 私は一冊の手帳を求め、平生これを懐中しているようにした。そうすると霊気が浸潤して、筆の運びが迅いからである。ラップ音なども、平生使い慣れた卓子には早く起こり、又諸種の心霊現象も、霊媒自身の居室でやるのが、最も容易に起こり易いものである・・・。
 最初自動書記の文字は小さくて不規則であったので、ゆるゆると気をつけて書く必要があり、肉眼で手元と、行間を注意しているのであった。さもないと、全てが混乱して、まとまりがつかないものになった。
 が、暫く過ぎると、そんな必要は漸く消滅した。文字は一層小さくなったが同時に一層規則正しく、又綺麗になった。私はいつも、頁頭に質問事項を書いておくと、これに対する解答が自動的に現れ、それには段落までつけてあるので、直ちに印刷して附しても差し支えないのであった。神(ゴッド)という字は、いつも頭文字で現れ、いかにも敬意を表するかの如く、それに限りて、ゆっくり書くのであった。取り扱われる題目は、悉く高尚純潔なものばかり、そして他人に示すよりも、私自身の指南車としてよいものばかりであった。自動書記は1880年まで連続的に現れたが、その中に気軽な冗談とか、洒落とか、野卑な文句とか、頓珍漢な理屈とか、嘘や出鱈目とかは、私の知れる限りに於いて、全然痕跡もなく、何れも皆真面目な教訓、又は忠言のみであった。
 初期の通信は、前にも言った通り皆細字で書かれ、その書体も均一で、Doctor,The Teacher,と署名してあった。この支配霊の手跡はいつも同一で、一見その人と知ることが出来た。彼は私にとりて一の実在であり、一の人格であり、その性情は、私が地上で接触する人間と同様に、顕著なる一つの輪郭を有っていた。
 そうする中に、通信は他の人格からも送られるようになった。筆跡、文体、語法等各々皆特色がある。で、私には筆跡だけ一瞥すれば、それが何者の通信であるかが、はっきり判るようになった。
 他界の居住者中には、直接私の手を使うことが出来ず、レクターと称する霊をして、代筆せしむるものも少なくないのであった。蓋しレクターは通信の名手で、さまで私の体力を消耗することなしに、自由に通信を行うらしいのであった。不熟練の霊に使われると、通信も纏まりが悪く、又私の疲労も非常に強烈であった。従って多くの場合に、レクターが代筆したが、ただ或る霊が初めて通信を試みるとか、又は特に通信を強調する必要を感じた場合とかには、当事者が親ら筆を執るのであった。
 但し、本書の収録された通信は、全部がインペレーターから出発し、そしてレクターがその写字生を努めたものである。他の場合、殊に通信の後期五年間に於いては、一団の霊達が各自自分の書体で通信を寄越した。
 通信を受け取る時の状態は種々雑多であった。通則としては私が周囲と絶縁することが必要で、私の心が受身になればなる程、通信が容易であった。最初は筆の運びが難渋であったが、間もなく器械的運動が勝を占め、一頁又一頁と、苦もなく書き綴られるようになった。
 最初これ等の通信を、スピリチュアリスト紙に発表するに当たり、通信者達は全部に修正を施したが、内容の実質には、少しの変化もなかった。ここに発表したものには全部個人関係の通信が省かれている。従って、最も力強く印象の深い部分が、自然除外されたことになったが、これは如何ともすることか出来ない。活字に附せられたものは、未発表の部分の単なる標本としてこれを取り扱い、他日全部公開の機会の到来を待つより外に途がない。
 私自身の観念が、果たしてこの通信に加味されているか否かは、興味ある研究問題である。私としては、その防止に全力を尽くした。最初は筆記が遅く、肉眼で文字を見送る必要があったが、それでも、盛られた思想は、決して私の思想ではなかった。間もなく通信の内容は、全部私の思想と正反対の性質を帯びるに至った。が、私は依然警戒を怠らず、書記中に他の問題に自分の考を占領させるべく努め、難解の書物を紐解いて、推理を試みつつあったが、それでも通信は、何の障害もなしに、規則正しく現れた。こうして書いた通信の枚数は沢山だが、それで少しも修正の必要なく、文体も立派で、時に気焔万丈、行文の妙を極めるのであった。
 が、私は私の心が少しも利用されないとか、私の精神的素養が、少しもその文体の上に影響を与えないとか主張するものではない。私の観る所によれば、霊媒自身の性癖が、確かにこれ等の通信の中に見出されると思うが、これに盛られた思想の大部分は、全然私自身の平生の持論、又は信念とは没交渉であるばかりでなく、幾多の場合に於いて、私の全然知らない事実がその中に盛られ、後で調査してみると、これ等は悉く正確であることが確かめられた・・・・。
 私には、これ等の書きものに対して、何等の命令権もなかった。それは通例求めない時に現れ、強いて求めても、必ずしも現象が起こらないのである。私は出所不明の突然の衝動に駆られて、静座して筆記の準備をやる。それが連続的に現れる場合には、私は通例早起きして、毎日の最初の時間をそれに宛てる。室はいつも祈祷に用いる専用のものである。すると多くの場合に通信が現れるが、しかし必ずしも当てにはならない。他の形式の現象が起こることもある。健康状態が面白くないと、無現象のこともあるが、そんなことは滅多に起こらない。
 インペレーターと称する霊からの通信の開始は、私の生涯に一新紀元を画するものである。それは私にとりて、精神的再生を遂げしめた教育期間で、爾来、私はいかに懐疑的空想に耽ることがあっても、心からの疑惑に陥るようなことがなくなった・・・・。
 これ等の通信の現れた形式などは、深く論ずるにも足りないであろう。その価値を決するものは、主としてその内容如何である。それは果たして宇宙人生の目標を明らかにし、永遠不朽の真理を伝えているか否か?・・・・恐らく多数人士にとりて、これ等の通信は全然無価値であろう。何となれば、その中に盛られた真理は、彼等には真理でないからである。他の一部の人達にとりて、これ等の通信は単に珍しいものというに留まり、又或る人達の眼には、単なる愚談と映ずるであろう。私は決して一般の歓迎を期待して、本書の刊行をするものではない。私はただ本書を有益と考えられる人達のお役に立てば、それで満足するものである』
 以上モーゼスの述べた所によりても明白である通り、『霊訓』中に収められてあるのは、原本の一部分に過ぎない。近年『霊訓』続編が出版されたが、これも一小部分である。原本の大部は、目下英国心霊協会に保存されている。