自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 問『いかなる種類の人が最も理想に近いか?』

 真の仁者、真の哲人-真の仁者とは、いつもその同胞の幸福と進歩とに、貢献すべく心懸けている、誠の人物、誠の神の子である。又真の哲人とは、知識の為に知識を愛する、これも又誠の人物、誠の神の子である。前者は人種、土地、教理、名称等の相違に留意することなく、その博大なる胸裡に、地上一切の人類を抱擁せずんば止まぬ。彼は対者の意見などには頓着せぬ。彼はただ対者の欠陥を察し、これに智慧の光を注ぐことを以って、畢生の念願とする。それが真の仁者である。が、世には往々仁者の偽物がある。それ等は自己に迎合阿付(あふ)する者のみを愛し、これに金品を与えて虚名を博すべく努力する。
 それから真の哲人-彼は決していかなる学説にも捕われない。又いかなる宗教宗派のドグマにも拘泥しない。そしていやしくもそれが真理であり、科学的の事実でさえあれば、一切の先入的偏見を排除して、千万人といえども吾行かんの概を以って、宇宙間の隠微を探るべく勇往邁進する。無上の幸福、無上の満足がその間に湧き出る。天地間の○(漢字不明)藏は無限であるから、彼は少しも材料の枯渇を患うには及ばない。汲めども尽きぬ智慧の泉、採れども尽きぬ思想の実、世にも幸福なるは、誠の哲人の生涯である。
 以上二つの結合-仁者と哲人との結合こそは、正に完全人の典型である。両者を兼ねるものは、その一方のみで進む者より、遙かに進歩が迅速である。

 問『生命は永遠?』

 永遠の生命-然り、我等は何れの方面から考えても、しか信ずべき理由を有つ。が、生命には確かに二つの階段がある。外でもない、それは向上と黙想との二つである。我等はまだ向上の途中にある。我等は地上の人間が想像する以上に、奥へ奥へ奥へと、生命の階段を昇るべく努力しつつある。従って我等は、まだ黙想の生活につきては何事をも知らない。が、恐らく向上進歩の最極限に到達した、遠い遠い無限の未来に於いて、我等が過去世の一切から離れ去り、天帝の真光に没しつつ静かに黙想の生活に入る時が、ないではあるまいかと思う。それにつきては、我々は何事も言えない。それは余りにも高きに過ぎる。地上の人間として、そこまで考えようとするのは、蓋し早きに失する。地上人として関心を有するのは、無限の生命のホンの入り口-死及び死後の生命の問題で、奥の院の問題ではない。

 問『あなたは地上に居た時よりも、神につきて多くを知るか?』

 神の働き-我等は、地上生活中に於けるよりも、遙かに多く神の働きにつきて知ることが出来た。死後の世界に於いて、一つ一つ階段を登るにつれて、より多く神の愛、神の智慧の無量無辺際であることが判って来たのである。が、我等の神につきての知識は、それ以上には出でない。今後に於いても、最後の黙想の生活に入るまでは依然としてこの状態に留まるであろう。要するに、神はその働きによりてのみ知られるに過ぎない。

 問『善と悪との戦、その他につきて教を受けたい』

 非命の死と罪悪-地の世界には、周期的に争闘が起こるものであるが、霊的眼光を以ってこれを考察すれば、畢竟それは善悪の霊と霊との争闘である。全て世の乱れるのは、未発達なる霊魂の数が不釣合に多くなった時で、従って大きな戦争の直後は、人心の悪化が、特に目立ちて強烈である。他なし、多くの霊魂が無理に肉体から引き離されて帰幽するからで、つまり資格のない未熟の霊魂が、幽界に充満する訳なのである。しかもそれ等の霊魂は、死の瞬間に於いて、憤怒に充ち、残忍性に充ち、まるで悪鬼夜叉の状態に置かれている。そんなのが、死後の世界から人間世界に働きかけて、いつまでも禍乱の種子を蒔く。
 一体霊魂が、無理矢理にその肉体から引き離され、激情と情念とに充ちたままで、幽界生活に突入する程危険なことはない、天寿を全うすることは、大自然の原則である。玉の緒は、決して人力を以って断ち切ってはならないのである。故に死刑程愚かなる、そして野蛮なるものはない。死後の生活状態、死後の向上進歩を無視するのは野蛮である。未発達の怒れる魂を、肉体の檻から引き出して、自由自在に暴れさせるは愚である。全て地上の人達は、いかに犯罪人を取り扱うべきかを、まだ少しも心得ていない。犯罪者をして、いつも一層堕落せしむるようにばかり仕向けている。犯罪者は須らく悪の影響から隔離され、高潔なる空気に没しつつ、全霊の感化を充分に受け得られるように、工夫してやるべきである。然るに地上の獄舎制度は、その正反対をやっている。あんな悪漢と、悪霊との巣窟に犯人を収容して、いかにして、その改善を期待することが出来よう!犯罪人とて、必ずしも悪人とは限らない。その少なからざる部分は、単に無智から罪を犯したのである。然るにそれ等が、一旦獄舎の空気に浸ったが最後、多くは真の悪漢と化して行くのである。他なし、そこで悪霊を背負い込むからである。そして最後に、犯人を極刑に処するに至りて、その愚や真に及ぶべからずである。肉体に包まれている間は、霊魂の働きに限りがあれど、一度肉体を離れたとなれば、縦横無碍に、ありとあらゆる悪魔的行為に耽ることが出来る。
 ああ盲目なる哉地上の人類、汝等は神の名に於いて過ちを犯せる人の子の生命を断ちつつある。思へ!殺された者の霊魂が、汝等に対して、復讐の念を燃やさずにいると思うか!汝等がかかる非行を演ずるは、畢竟神の何者たるかを知らぬからである。汝等の所謂神とは、汝等の本能が造り出したる人造の神である。大威張りで、高い所に座り込んで、最高の名誉と最大の権力を享有し、お気に召さぬものがあれば、片っ端からこれを傷付け、殺し、又苦しめる大暴君、大悪魔、それが汝等の所謂神である。
 誠の神は、断じてそんなものではない。そんな神は宇宙間のどこにも居ない。それはただ人間の浅墓な心にのみ存在する。
 然り、友よ、地上の獄舎制度、並に死刑制度は、全然誤謬と無智との産物である。
 もしそれ戦争、かの大量生産式の殺戮に至りては、一層戦慄すべきものである。我々霊界の居住者から観れば、戦とは激情に駆られたる霊魂達から成れる、二つの集団間の抗争である。それ等の霊魂達は、悪鬼の如く荒れ狂いながら、陸続として肉体から離れて幽界へなだれ込む。するとそこには、残忍性に富める在来の堕落霊どもが、雲霞の如く待ち構えていて、両者がグルになって、地上の堕落せる人間に働きかけるから、人間の世界は層一層罪と、汚れの地獄と化して行く・・・。そしてかかる惨劇の起きる動機とは問えば、多くは地上の権力者の只一片の野心、只一場の出来心に過ぎないのである。
 ああ友よ!地上の人類は、まだまだ学ぶべき多くのものがある。彼等は何よりも先ず、誠の神と、誠の神の為に働きつつある霊界の指導者と、を知らねばならぬ。真の進歩はそれからである。地上の無智なる者は、或は我等の示教に対して、侮蔑の眼を向けるであろうが、それ等は暫く後回しとし、智慧の教を受け入れることを好む進歩的頭脳の所有者に、我等の霊界通信を提示してもらいたい。必ずや何等かの効果があるに相違ない。尚盲目者流の為にも、彼等の心の眼が、他日立派に開くよう、心から善意の祈願を捧げてもらいたい。
 (評釈)極度に切りつめた抄訳ではあるが、意義だけはほぼ通じることと思う。『永遠の生命』の一節は、説く所頗る簡潔であるが、生命を『向上』と、『黙想』との二階段に分け、我等の当面の急務として、向上に力点を置くべきを説けるは至極賛成である。かのインド思想にかぶれた者は、ややもすれば、途中の大切な階段を無視して、一躍最後の理想境を求めんとするが、これは百弊ありて一利なしである。何の得る所なき自己陶酔、キザな神様気取りの、聖者気取りの穀潰しが、一人出来上るだけである。日本国民は、一時も早くそんな陋態(ろうたい)から超脱して、一歩々々向上の生きた仕事に従わねばならぬ。
 次に『非命の死と罪悪』の一節は、正に本章の圧巻で、再思三考に値する。人心の悪化、労資の軋轢、世界現状の行き詰まり等を嘆息するものは世間に多いが、それ等の中の幾人かが、かかる世相の由って来る所を、奥深く洞察して世界平和の大計を講ずる資格があるであろうか。霊界の先覚から、『盲目なる哉地上の人類』と一喝されても、誠に致し方がないように思われる。二十世紀の現代には、改善すべきものが尚無数にある。獄舎制度も面白くないが、教育制度も甚だ面白くない。まるきり心霊の知識を欠ける人類は半盲人である。到底碌な考えの浮かぶ筈がない。私は衷心から、日本国民よ、どこに行くと叫びたい。