自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 問『あなた方の啓示は、却って民衆の心から信仰を奪う結果になりはせぬか・・・』

 新啓示と一般民衆-汝の疑惑の存するところはよく判る。我等はこれから右につきて、十二分に所見を述べようと思う。我等は我等の使命の、神聖なることを信じて疑わぬ。時運さえ熟せば、天下の民衆は、必ず我等の指示に従うに相違ないのであるが、それまでには、民衆に対して多大の準備教育を必要とする。現在に於いて我等の提唱する所を受け容れることの出来るのは、ホンの少数の先覚者-つまり一般民衆の先達として、指導者の位置に就くべき、少数の先駆者のみに限られる。一体いずれの時代、いづれの国士に於いても、これに例外はない。旧知識に満足している無智の大衆は、必ず新知識に向かって、反抗の声を掲げるのが常則となっている。かのイエスとても同様の憂目を嘗めた。寄木細工式の繁瑣な神学をでっち上げた人達、朝に一條を加え、夕に一項を添えて、最後に一片の死屍にも似たる、虚体虚儀の凝塊を造り上げた人達-それ等はイエスを冒涜者と見做し、神を傷け、神の掟を破る大罪人であると罵った。かくて最後に、イエスを十字架に送ったのである。
 今日では何人も、イエスを神を瀆す罪人とは考えない。彼こそは、実に外面的の冷かなる虚体虚儀を拝して、その代わりに、陽の光の如く暖かなる内面的の愛を、人の心に注ぎ込んだのである。が、当時の当路者達は、イエスを以って、みだりに新信仰を鼓吹して旧信教を覆すものとなし、これを磔刑に処したのである!
 イエスの従弟の時代に至りても、一般民衆は、尚未だイエスの真の啓示を受け容れるだけの心の準備がなく、従弟達に対する迫害は、間断なく繰り返され、ありとあらゆる面罵の雨が、彼等の上に降り注いだ。曰くイエスの従弟どもは、極端に放縦無規律なるしれものである。曰く彼等は、赤子を殺し食膳に上せる鬼どもである。今日から顧れば、殆ど正気の沙汰とは受け取れぬような悪声が、彼等の上に放たれたのであった。が、これは独り当時に限られたことではない。現在我等霊界の使徒に対して向けられる世人の疑惑、当局の圧迫とても、ほぼこれに等しきものがある。
 但しかくの如きは、人文史上の常套的事象であるから、諦めねばならぬ。新しい真理に対する迫害は、宗教と言わず、科学と言わず、人類の取り扱う、いかなる原野に於いても、例外なしに行なわれるのである。これは人智の未発達から発生する、必然的帰結であるから致し方がない。耳慣れたもの程俗受けがする。これに反して耳慣れぬもの、眼馴れぬものは頭から疑われる。
 で、我等の仕事が、前途幾多のイバラに阻まれるべきは、元より覚悟の前であらねばならぬ。我等の啓示は往々にして、未開なる古代人の心を通じて漏らされた啓示と一致せぬ箇所がある。これは使用する器の相違が然らしむるところであるから、如何ともする事は出来ない。
 言うまでもなくバイブルは、幾代かに亘りて受け取られたる啓示の集録である。かるが故に神につきての観念は、人智の進歩に連れて次第に変化し、枝葉の点に於いては、必ずしも一致していないのである。加之バイブルの中には、人間的誤謬の夾雑(きょうざつ)物が少なくない。これは霊媒という一の通信機関を使用する、必然の結果である。真理は全体の流れの中に見出すべきで、一字一句の末に捕えらるれば、到底真理を掴むことは出来ない。全体と交渉なき局部的の意見は、筆者の思想を窺うのには役立つが、我等の信仰問題とは没交渉である。二千年、三千年の昔に於いて述べられた言説が、永遠に威力を有するものと思うは、愚も又甚だしい。そうした言説は、それ自身の中にも矛盾があり、又同一書冊の中に収められた、他の言説とも相衝突している。大体に於いて言うと、バイブル編成時代の筆者達は、イエスを以って神の独り子と思考し、このドグマを否定するものを異端者と見做した。同時に又それ等の人達は、あまり遠くない将来に於いて、イエスが雲に乗りて地上に再臨し、地上の人類の審判に参与するのだと信じていた。無論これ等が皆迷信であることは言うまでもない。イエスの死後、既に千八百年以上に及べど、今以ってイエスは地上に再臨しない。よほど活眼を以ってバイブルに対しないと、弊害が多い所以である・・・。
 で、我等がこの際諸子に注意を促したいことは、諸子が神の啓示を判断するに当たりては、須らく自分自身に備われる智慧と知識との光に依り、断じて教典学者の指示に依ってはならないことである。啓示全体に漲る所の精神を汲むのはよいが、一字一句の末節に拘泥することは、間違いの基である。従って我等の教訓を批判するに当たりても、それが果たして或る特殊の時代に、或る特殊の人物によりて述べられたる教訓と一々符合するか否かの穿鑿(せんさく)は無用である。我等の教訓が、果たして諸子の精神的欲求に適合するか、否か、それが果たして諸子の心境の開拓に寄与する所あるか、否かによって去就を決すればよいのである。
 換言すれば、我等の教訓が、正しき理性の判断に堪えるか?精神の糧としてどれだけの価値を有するか?-我等の教訓の存在理由は、これを以って決定すべきである。
 正規の教会で教えるように、諸子に臣従を強いるところの神は、果たして諸子の崇拝の対象たるに足りるか?その神は、自己の独り子の犠牲によりて、初めてその怒りを解き、お気に入りの少数者のみを天国に導き入れて、未来永劫、自己に対する賛美歌を唄わせて、満足の意を表している神ではないか!そしてその他の人類には、天国入りの許可証を与えず、悉くこれを地獄に追いやりて、言語に絶した苦痛を、永久に嘗めさせているというではないか。
 教会は教える。神の信仰に入りさえすれば、いかなる堕落漢たりとも、たちどころにその罪を許されて天国に入り、神の御前に奉侍することが出来ると。もしもそれが果たして事実なりとせば、天国という所は、高潔無比の善人と、極悪無道の悪人とが、互に膝を交えて雑居生活を営む、不思議千万な場所ではないか?
 我等の教える神は、断じてそんなものではない。道理が戦慄して逃げ出し、人情が呆れて顔を背けるような、そんな奇怪な神の存在を我等は知らない。それは人間の迷信が造り上げた神で、実際には存在しない。しかもかかる神を空想した人物は、よほどの堕落漢、よほどの野蛮人、よほどの迷妄漢であったに相違ない。人類として信仰の革命が、急を要する所以である。
 我等が知る所の神、愛の神は断じてそんなものではない。その愛は無限、しかも全てに対して一視同仁である所の、正義の神である。そして神と人との中間には、多くの守護の天使達が存在し、それ等が神の限りなき愛、神の遠大なる意志の直接の行使者となるのである。これ等の行使者があるから、そこに一分一厘の誤差も生じないのである。神は一切の中心であっても、決して直接の行動者ではないのである。
 思え!永遠の魂の所有者たる諸子は、不可解、不合理なる教義の盲目的信仰と、ただ一片の懺悔の言葉とによりて、単調無味なる天国とやらの権利を買い占めるのであろうか?否々、諸子はただしばし肉の被物に包まれて、より進歩せる霊的生活に対する準備を為すべく、地上に現れたる魂なのである。かるが故に、現世に於いて蒔かれたる種子は、やがて成熟して、次の世界の収穫となる。単調無味な、夢のような天国が、前途に諸子を待っているようなことは断じてない。永遠の向上、永遠の進歩、これが死後の世界の実相である。
 従って各自の行動を支配するものは、不可犯の法則である。善行は魂の進歩を助け悪行は魂の発達を阻止する。幸福は常に進歩の中に見出され、進歩につれて神に近付き、完全に近付いて行く。魂は決して安逸懶惰(らいだ)を願わない。魂は永遠に知識の前進に対する欲求を棄てない。人間的欲情、人間的願望は肉体と共に失せるが、魂には純情と進歩と愛との伴える、清き、美しき生活が続く。それが誠の天国なのである。
 我等の魂の内に存在する地獄以外の地獄を知らない。この地獄は不潔な劣情の焔によりて養われ、悔と悲の焔によりて培われ、過去の悪業に伴える、諸々の重荷が充ち充ちている。この地獄から脱出すべき唯一の途は、ただ踵を返して正道に戻り、正しき神の教に基づきて、よき生活を営むことである。
 無論死後の世界にも刑罰はある。されどそは、怒れる神の振り降ろす懲戒のしもとではない。恥を忍び、苦痛を忍びて、自ら積み上げる善行の徳によりてのみ、償うことの出来る自然の制裁である。御慈悲を願う卑劣な叫びや、オロオロ声を絞りての、偽懺悔などによって償うべくもないのである。
 真の幸福を掴もうと思えば、道に協い、我欲から離れたる生活を、ただ一筋に厳守するのみである。幸福は合理的生活の所産であり、これと同様に、不幸な有形無形に亘る一切の法則の意識的違反から発生する。
 我等の遠き前途につきては、我等は何事も語るまい。何となれば、我等も又それにつきて、何等知るところがないからである。が、我等の現在につきていえばそは諸子の送る地上の生活と同じく、不可犯の法則によりて支配され、幸不幸は、ただその法則を遵守するか否かによりて決せらるるのである。
 我等は今ここで、我等の唱道する教義につきて細説はせぬであろう。神に対し同胞に対し、又自己に対して守べき人間の責務につきては、諸子もほぼ心得ているのである。他日諸子はこれにつき、更により多くを知るであろう。現在としては既成宗教のドグマと、我等の教義との間に、いかに多大の径庭があるかを明らかにしたのを以って満足するとせう。
 諸子は我等の主張が、既成宗教の教条に比して、遙かに不定形、遙かに不透明であると思うであろう。が、我等は、決して彼等の顰に倣って実行不能、真偽不明の煩瑣極まる法則などは述べようとはせぬ。我等の期するところは、より清く高き空気を呼吸し、より清く、聖なる宗教を鼓吹し、より純なる神の観念を伝えることである。要するに我等は、あくまで不可知を不可知とし、かりそめにも憶測を以って知識に代えたり、人間的妄想を以って、絶対神を包んだりしないのである。我等の歩まんとする道は、憶測よりは寧ろ実行、信仰よりは寧ろ実験である。我等はこれが智慧により、神により導かるるところの、正しき道であると信ずる。思うに我等の教は懐疑者によりて冷視せられ、無智者によりて罵られ、また頑迷者流によりて異端視されるであろう。しかしながら真の求道者は、我等の教によりて手懸りを獲、真の信仰者は我等の教によりて幸福と、進歩との鍵を掴み、そして縦令千歳の後に至るとも、この教の覆ることは絶対にないと信ずる。何となれば我等の教は、あくまでも合理的の推理と、合法的の試験とに堪えるからである。
 (評釈)神霊主義の神髄は、ほぼ遺憾なくここに尽くされている。現世と死後の世界が繋がりであること、両者があくまでも大自然の法則の支配下にあること、『神』は最高最奥の理想的存在であって、神律の実際の行使者は、多くの天使達であること、幸と不幸との分れ目は、有形無形の自然律を守るか、守らぬかによりて決すること、神霊主義は正しき推理と、正しき実験との所産であるから、永遠に滅びないこと-それ等の重要事項が、中々良く説かれている。今後人類の指導原理-少なくとも具眼有識者の指導原理は、これ以外にある筈がないであろう。
 なかんずく私がここで敬服措かないのは、『天使』につきての大胆率直なる啓示である。無限絶対の『神』又は『仏』のみを説きて、神意の行使者たる天使の存在を説かない教は、殆ど半身不随症に罹っている。無論ここにいう天使は、西洋式の表現法を用いたまでで、日本式でいえば八百万の神々である。くれぐれも読者が名称などに捕えられず、活眼を開いて、この貴重なる一章を味読されんことを切望する。