自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 物的地球はあたかも鏡裏の映像に似ている。それは鏡面に投げられる影によりてのみ真実である。かるが故に、その認識は個々の視覚の性質次第で決まる。土塊に包まれたる地上の人間は、勿論一の仮相であるから、物の視方が非常に一方的で、地球をば単に迅速に回転する一の円球としか観じ得ない。肉体放棄後に於いても、彼は往々地上生活の根本的性質の実性を悟り得ないで、愚かにも生前の空夢に憧れる。で、これ等の霊魂が帰幽後に於いて逢着するものは、大体地上生活そのままの光景である。が、それは結局彼の記憶が造り出したる、一の夢の国に過ぎないもので、彼の地上生活を構成していた、様々の事件が、再びまざまざと彼の眼前に現れて来る。要するに彼は他愛もない嬰児であって、自分が置かれている新世界の現実が少しも判らないで、ポカンとして暮らしているのである。
 この程度の嬰児霊が、往々うつらうつらとした夢見心地で、地上との通信を行なうことがある。彼等はしきりに自分の夢見つつある、記憶の国を物語るべく努める。が、勿論そんなものは地上の光景と全然同一である。一部の人士はこれに対して、『常夏の国(サマーランド)』という名称を与えるが、全く上手い名前である。兎も角も彼は肉体の羈絆(きはん)から離脱してはいるので、その心の働きが遙かに自由となり、自分の好みに応じて面白い記憶の国を捏(でっ)ち上げる力量を具えている。彼は本能的に地上生活の楽しかった箇所のみ寄せ集め、苦しかった箇所は皆省いてしまうから、ここに素晴らしい極楽浄土然たる別世界が出来上がる。彼の得意と満足とは以って察すべしである。が、勿論それは単なる夢の世界で、死後の世界の実現でも何でもない。暫くはそれで満足していられるが、やがて精神的自覚の味が来て、一切は烟散(えんさん)霧消し、自分の置かれている新しい環境に初めて目が覚める。従来霊界通信と称せられたものの大部分は、実にこの夢幻境の描写に過ぎない。
 私はこの記憶の国からは夙(つと)に離れ去っているが、私達の境涯から眺めると、その世界は甚だしく非現実的で、謂わば映像の又映像と感ぜられ、面白くもおかしくもない。その幸福はのんべんだらりとした植物性の幸福、周囲の出来事に全然没交渉なる頑是なる小児の満足に過ぎない。
 (評釈)交霊現象の実地体験者にして、初めてここに述べてあることがしっくり腑に落ちるかと思う。南無阿弥陀仏を唱えれば極楽往生疑いなしとか、キリストの前に懺悔さえすれば必ず天国に行けるとか、いうような暗示を受けて帰幽した霊魂達を呼び出してみると、彼等の多くは依然たる呉下(ごか)の旧阿蒙(あもう)で、マイヤースの所謂記憶の国、つまり単なる自己の空想で造り上げた単調気味の境涯に収まり返り、安価な自己陶酔に耽っていることを発見する。進んで悪事を働くよりか、これでもまだマシかも知れぬが、しかしそこに何等の進歩も、向上も、又努力も見出されない。宗教はアヘンだ、という言葉があるが、全く既成宗教の大部分にはそう言った趣が幾分無いともいえない。消極的の効能はあっても、積極的の働きは頗る乏しい。今後の人類、少なくとも国家社会をリードしようとする識見力量の所有者にとりて、そろそろ既成宗教があき足らなく感ぜられるに至った所以であろう。幼弱な自己陶酔に耽るには世の中が少し進み過ぎたようだ。