自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 以上説いた所は、ほんの超物質的生活の輪郭に過ぎない。詳しく言ったら、それは種々雑多の状態に分かれるのである。一例を挙げれば、ずっと上方に於いては、表現形式が幾通りにも分かれる。即ち一つの霊魂が沢山の姿を有っており、進むにつれて甲から乙へと移って行く。その間の消息は実に隠微を極め、よほどの超科学者でも、容易に真相は掴めない。ただそこには一つの動かすべからざる鉄則が厳守される。他なし汝が同一振動数の形態を有する者のみを感知し得る事である。故にもし異なる振動数の形態所有者と交通を試みようと思えば、自分自身を統一状態に導き、それと波長を合わせるより外に方法がない。そうしさえすれば、上の段とも下の段とも、臨時に交通が可能である。我々として下の方は冥府まで降りる。冥府の霧の中へ入って、そこで地上の人間とも接触するのである。これが為に我々は、しばしば地上人の夢の中に巻き込まれ、上層界に於ける経験の記憶を、一時喪失してしまうのは困ってしまう。よくよく調子の良い時でもなければ、興味ある、又有益な通信は送れない。我々は地上の記憶・・・、しかも往々他人の記憶の繭の中に包まれて、辛うじて平凡な事件を伝え得る位のことになる。それは丁度巣の内部で蜜に浸った蜜蜂が、半昏睡状態に陥ったのにそっくりである。
 兎に角光明世界の居住者の近くはよほど鋭いものなのだが、残念ながら、その観念を地上人に伝える事は非常に困難である。幽界の住人からの発意的通信が少ないのも、主としてそれに原因する。大体地上人は、我々から観れば幽霊みたいなもので、よほどの信念と愛情を以って、真剣に求めてくれなければ、成る程と首肯されるような、はっきりした通信は送り得ない。念の為に断っておくが、地上の人間が確証を求むることは合法的である。これが為に他界の居住者の感情を害したり、苦悩を増させたりするようなことはない。
 一体人間には、自分が一度も経験したことのない、新しい音、新しい色、又新しい感覚等を想像する力はない。従って我々が第四界で経験する無尽蔵の音も、色も、感覚も、人間には到底想像し得ない。地上の人間は半分眠って暮らすのである。人間が覚醒している時ですら、その意識には一分間に約四、五十回位の無意識の隙間が出来る。この点に於いて人間は、海峡の闇夜を照らす灯台にそっくりである。咫尺(しせき)を弁ぜぬ闇が海面を蔽うている。と、時に一閃の火光が大空を横切り、瞬間的に波間を照らす。人間の意識とは要するにそんなものらしく私には見える。肉体を棄て、意識の階段を上昇するに連れ、人間は次第に闇から脱出する。つまり光が一層強まり、且つ持続性を加えて来るのである。第四界に達すればもう随分明るい。無意識の間隙がずっと減少する。何となれば、その使用する機関が遙かに精妙の度を加え、又その智能の働きが遙かに敏活となり、かくて霊と魂、との結合が比較にならぬ程しっくりとなるからである。盲目の狗児(いぬころ)がそろそろ目が見え出すのである。私はもう一度闇夜の海面の譬喩を借りる。海面は殆ど間断なく灯台の光で照らされ、真っ暗闇の場面はもう滅多に見られないのである。光景一新という所である。従ってかの言葉と称する原始的な、粗末な音波を用いて、この比較にならぬ程鋭利俊敏な意識の世界に起こりつつある、千変万化の実相を伝える術もなかろうではないか!我々が経験しつつある活発々地の思念の強さ、激しさ-これに比すれば地上の人間の頭脳の緩慢なる運動、又現世的葛藤に臨みて巻き起こさるる粗雑な情熱などは、全然問題にならないのである。試みにナメクジやカタツムリの智的活動と、人間のそれとを比較してみるがよい。そうすれば大体第四界の精神的活動と、人間界のそれとの相違が判るであろう。
 我々の空間に対する観念は、全然あなた方のそれとは違う。ここで無線電信の譬喩を持ってくれば、幾分かはその概念を獲られるであろう。我々はほんの一瞬精神を統一すればよい。そうすると我々の姿は忽ち出来上がり、そしてその姿は忽ち無限の空間を横切りて、自分と波長の合った友人の所へ現れる。距離の長短などは全然問題でない。そして我々はいとも容易に対話を交える。無論それは言葉でなくただ思想の対話なのである。会見が終わった時、又その姿から思念の生命(分霊)を抽出すれば姿は忽ち消える。無論こうした仕事の出来るのは、同一世界に属する住人間のみに限る。律動の合わないものとは、そう容易く仕事が運ばない。
 私がこの念力の働きにつきての一小例を掲げたのは、我々がいかに一歩宇宙の大生命力に接近したかを示したく思ったからである。我々は次第にいかにして形態の内と外とに生くべきかを習得しつつある。我々は次第に念の流動性に気が付いて来つつある。我々はこの念が、いかに完全に一切の表現の培養素たるエネルギーと、生命力とを支配するかを理解している。
 (評釈)前節で不充分と思われたところが、大分この一節で補充されている。念力のいかに不思議力を有っているかは、地上生活に於いても認知し得ないではないが、しかし念力の本場は、何と言っても死後の世界である。マイヤースのこれに関する説明は、ほぼ至れり尽くせりと言ってよかろう。なかんずく人間の意識をば、暗夜を照らす灯台に譬えたなどは非常に面白い。人間としては忌々しいが、しかしそれは確かに事実であろう。又霊界の居住者間に行われる通信法の説明も、非常に巧妙適切を極める。『死後愛する人達は同棲しますか』などという質問をしばしば受けるが、同棲と否とが他界にありて全然問題でないことは、この一節を味読すればすぐ氷解されるであろう。