自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 死につきての感想は、我々のような他界の居住者・・・しばしば或る方法を以って地上に戻りこそすれ、最早すっかり地上からは籍を削られてしまっている、我々別世界の旅人と、今尚地上に生活しつつある人間との間には、そこに当然或る程度の隔たりがあるに相違ない。我々にとりて、死は単なる偶発的一事象・・・いささか懐かしみはあれど、別に辛くも悲しくもない、単なる人生の一挿話でしかない。しかしながら地上の人間には、恐らく死は永遠の世界への道中に於ける、一夜の宿りとも感ぜられるに相違ない。
 その一夜の宿りに対する感想は、人によって決して同一ではないであろう。或人には熱に浮かされた輾転反側(てんてんはんそく)の一夜であり、他の人にはひっきりなしに悪夢に襲われる恐怖と不安の一夜であろう。そうかと思えば、又他の人には、すやすやと心地よき熱睡の一夜でもあろう。が、兎に角、この宿りには、本来静止と安息とがいつもつきもので、最後は何人も皆、そうした空気の中に誘い込まれる。但しその状態は決して永続はしない。肉体を離れた魂には、やがて新しい朝が明けるのである。そしてその身辺には、必ず彼と因縁のある他界の住人、つまり彼の宿命の模様の中に織り込まれている、大小、新旧、善悪、美醜、様々の霊魂達が見出されるのである。
 さて私としては、進んで死の問題の政究に入るに先立ち、是非ともここで従来思想の混線の種子であった、一つの言葉の意義を明らかにしておきたい。外でもない、それはディスカアネエト・ビーイング(肉体から離脱したる者)という文字である。これは単に肉体からの離脱を意味するものであって、決して一切の形体からの離脱を意味するものでないことを承知してもらいたい。何となれば、彼岸の旅客が第六界に達するまでは、彼は必ず何等かの形体、何等かの自己表現機関を使用するからである。
 これ等の形態は、細別すれば非常に多種多様であるが、我々の当面の問題としては、ここにただ四種類だけを挙げれば事足りると思う。即ち-
 (一)複体(ダブル)-統一作用を営むところの一の媒体で、普通はこれをアストラル・ボディと呼ぶが、自分としてはこの名称を用いたい。
 (二)幽体(エセリックボディ)
 (三)光体(シェーブオブライト)又は本体(セレステイアルボディ)
 最後の二つは、上層の世界に於ける魂の有するもので、観念次第、意思次第で、その形態は千変万化する。
 ところで、諸子は既に他界の居住者達の通信によりて、『死』の秘密は、結局自己の纏える外被の振動する速度の中に見出されることを知っておられると思う。地上の人間は、何によりて自己の環境を知り得るか?他なし彼の肉体が、或る特殊の速度で振動しているからである。試みに汝の肉体の振動速度を変えてみるがよい。その瞬間に大地も、男も、女も、その他一切の物体も、全部汝の視界から消失し、同時に汝自身も又彼等の視界から消失する。かるが故に死とは、単に振動速度の変化である。従ってこの変化を遂げるが為には、一時的の中断又は休止が必要である。何となれば、魂は或る一定の振動数で動いている一つの体から、異なれる振動数で動いている他の一つの体に移るの準備をせねばならぬから・・・。
 言うまでもなく、新生活の移動には、何等急激の飛躍、急転直下式の変動を必要としないのであって、従って、是非ともそこには一の中間地帯が設けられて然るべきである。その中間地帯こそ、前にも述べた通り、かの所謂冥府(ヘーズ)の生活なのである。キリストでさえもが、無論この境涯を経ている。
 ここで我々は第一の疑問に逢着する。医師が既に臨終を宣告し、そして近親の人達が、変わり果てたる遺骸の傍で、故人のありし日の面影を偲びて、哀悼の涙にむせびつつある時、死者の魂は一体いかなる形態をとりて、自分自身を表現しつつあるか?あれほど親しかった、あれほど懐かしかった魂が、そのまま消滅してしまうとは、どうしても信ぜられない。何人も本能的に、どうしてもこれが万事の終わり、一切の結末とは考えたくないのであるが、実際又それが正しい直覚なのである。
 人間は地上の全生活中、既に複体なるものを携帯していたのである。この複体こそは、奥深き内部精神と、物質的脳髄との連絡機関であって、非常に大切な役目を有っている。汝が眠りに落ちる時、汝の意識は最早少しも汝の肉体を支配しなくなる。これは一時的の休止と言わんよりも、寧ろ全部的の断滅と言った方が当たっている位である。何故に然るか?他なし睡眠中汝の魂が肉体を離れて、複体の内部に移っているからである。肉体はこの間に生命の維持に必要なるエネルギー、つまり生命素ともいうべきものの補給を受ける。そうした事実は昔の人達にも天然自然に判っていた。古来睡眠は飲食物以上に大切であるとされているが、それは正にその通りに相違ないのである。
 自分は今人間生活のこの境地につきて、詳述を試むべき余白を有たぬが、兎に角諸子としては、この複体なるものが、もしこれを可視状態に導くことが出来れば、外形的に全然肉体と符合するものであることを承知してもらいたい。そして複体と肉体とは沢山の細い紐と、二條の銀色の紐とを以って互いに結び付けられている。右の二條の紐の中一つは下腹部に、他の一つは脳に連係されているが、それは驚くべき弾力性に富んでいるので、睡眠中にいくらでも必要に応じて延長する。これ等大小の紐は、人が静かに死する場合には、極めておもむろに切断され、そしていよいよ重大なる二本の紐が、下腹部と脳との連絡を失う時こそ、とりも直さずそれが死なのである。
 魂が肉体から逃れた後にも、時として生命が、体内の一部の細胞内に留まることのあるのは、周知の事実である。この現象はいつも医学者にとりて難問題であるが、しかしこちらからいえば、その説明は頗る簡単である。即ち紐の一部が切断されぬ為に、複体が肉体から完全に離脱し得ないのである。魂はこの途中の引っ掛かりの為に、少しも肉体的には苦しまない。ただその間肉体の周囲の事物が識別されるので、精神的には多少苦悶を免れないかも知れない。何となれば、枕辺に泣き悲しむ親族や、友人の姿をば、虚心で見ることが出来ないであろうから・・・。が、一般的通則としては、一時間乃至二、三時間にして、魂は地上の把握からの完全なる離脱を遂げるのである。
 諸子が死者の枕辺に見守る時、諸子は少しも肉体から離脱直後の魂の安否につきて、懸念するには及ばない。何となればその時分に、魂は普通半睡眠状態にあるからである。かの一切の心身の苦悩、かの一切の悪夢幻想等は、魂が複体への移動以前に起こる現象である。死の瞬間に於いては、急激なる変死の場合等は例外として、その意識は通例平静なのである。それは朦朧たる一種の安息である。そして時とすれば、自分に先立ちて帰幽した親しき友人親戚の面影に接するのである。
 いうまでもなく、死後の境涯は人によりて驚くべき相違がある。一生の間にただの一度も心から他を愛した経験の無いものは、冷たき自己の残骸から離れると同時に、孤影悄然として、地上のそれとは比較し難き、濃厚にして鈍重なる闇の世界に滑り込むのである。
 さりながら、このような絶対的孤独は、極めて少数の人物にのみ適用される。よくよくの利己主義者、又は残忍性の所有者は、この極刑に処せられるであろうが、しかしそれは何れも、比類稀なる人非人にのみ限られる。
 普通の男子も女子も、その死に際して、何等の苦痛を味わわぬが通則である。彼等は既にその肉体からすっかり分離しているので、肉体はいかにも苦しみ、悩んでいるらしく見えても、本人の魂そのものは、単に睡気に襲われるのみで、風に漂う鳥と同じく、右に左に、西に東に、ただ当てもなく、うつらうつら漂蕩するような感じである。
 今まで病床にありて、散々呻吟を続けた後で、この半醒半夢の状態は、寧ろ一種の慰安、一種の休養でさえもある。かるが故に死者の外面的苦悩に対して悲しむ必要は少しもない。彼は既に完全に苦しみから免れ、見ゆる世界と、見えざる世界との中間に羽ばたきをしながら、言うに言われぬ一種の満足-心の平静と新たなる知覚とに恵まれた、一種の快感に浸っているのである。
 かくして魂はやがてすっかり複体の中に収まり、少時の間は物質的遺骸の上に彷徨する。その内人間はきっとこの瞬間の模様を、写真に撮ることが出来るようになるであろう。それは乾板の上に一片の白い雲、蒼白きエッセンスとして記録されるであろう。機械的には、いかにそれが発達しても、到底それ以上に帰幽者の姿を捕える力はないであろうが、勿論我々他界の居住者には、もっとはっきりその姿が判る。そして通例彼の身辺には、出迎えの友人や親戚等が打ち集っている。
 (評釈)格別これはと取り立てて言う程、斬新卓抜な材料もないが、しかし簡単な叙述の中に、かくも死の前後の真相を伝えているのは流石と思われる。マイヤースはここでもディスカアネエト・ビーイングの文字を捕えて、心と物との不離の関係を説いているが、これは誠に初学者に対して、親切な心遣いである。霊(スピリット)というような文字に捕えられて、今尚多くの人々が、死後の世界をばひたすら抽象的、又平等的に取り扱わんとする傾向を免れないが、これは心霊問題を取り扱うものにとりて、真っ先に注意すべき事柄である。この幼稚な勘違いの為に、いかに多くの無益の論争が続けられて来たことであろう。
 さてマイヤースは、超物質的エーテル体をば、複体、幽体、霊体、光体の四種類に大別しているが、内容からいえば、全然私の意見と一致していると言ってよい。ただ私としては、複体が要するに一の中間的存在で、それ自身独立せる機関でないところから、これを肉体又幽体の付属として取り扱い、強いて表面に持ち出すことを避けたまでである。私としてその存在を認めない訳ではないから、くれぐれも左様御承知を願いたい。
 マイヤースが、『死』を以って振動速度の変化であると定義を下したのは、簡単にして要領を獲ている。最初この仮説を提唱したのは、クルックス卿であったが、爾来他界からの通信は、皆これを肯定することになっている。今日では恐らく動かぬ定説であろう。
 マイヤースか臨終の際に起こる肉体的苦悩状態を以って、何等懸念の要なしと教えているのは蓋(けだ)し正当な、そして有益な忠言である。他の数ある心霊実験から言っても、この事実に萬々間違いはなきものと断言できる。これにつけても、現代の医学者が、到底助かる見込みのなき病人の肉体に、カンフルその他の注射を濫用するのは、甚だ感心出来ないと思う。薬液の注射は一時的に肉体の機能を刺激し、その結果、複体と肉体との分離を困難ならしめる。死者の側からいえば、随分難有迷惑な感がせぬでもあるまいかと痛感せられる。