自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 自分はここで、『注意』の定義を下しておきたい。生理学的にいえば、注意とは或る特殊の神経の力をば、或る特殊の脳細胞に向けることである。例えば自分がヴェニスの聖アマクの影像を想起しようとすると、その時自分としては、ヴェニスの記憶に関係ある、特殊の脳細胞に神経力を向けるのである。すると、かつてヴェニス生活中に作られた影像が復活して来て、一時的に一つの『人格』を造る。その間背景には、無論絶えず意志の力が全てを支配している。勿論これはヴェニスに限ったことではないので・・・。さて右の人格の諸要部であるが、自分の観る所によれば、これ等は意想外に複雑した連想、又は記憶の網によりて造られていると思う。つまりそれ等の要部の一つ一つが、魂の柔軟な原料中に深く刻まれた、基本的経験の連続から出発しているものと思う。
 我々帰幽者の『心』は、これを一つの網と考えてもらいたい。網には沢山の小中心があり、これ等の小中心から色々の思想、色々の記憶が放射されている。そしてそれ等のどの小中心も、注意を地上の物質界に向けることが出来る。勿論我々は、根本的には一つの纏まった人格である。しかし我々が、或る特殊の事物に精神を集中する時に、我々は分割されて二つのものになる。つまり我々は、本体と分霊との二つになるのである。我々が再び一つに纏まろうと思えば、我々は地上の諸君から離れて、よほどの遠路を戻って来ねばならない。私は今『遠路』と言ったが、勿論これは距離を意味するものでない。それは結局気分の問題であり、同時に又二つであり、又もっと多くでもあり得る。これは独り我々帰幽者に限ったことではない。地上に住む諸君だとて同一である。諸君の体は謂わば小宇宙で、その中には無数の小生命が宿っているが、しかしこれを統轄する心はたった一つである。私とすれば帰幽後に於いて、自分というものの正体が、初めてよく判って来た。つまり私というものは、より大なる魂の一部分でしかないのである。自分は自分にして同時に自分でなく、自我の本体の中の沢山の中心より糸を引いて、地上に於ける自分の経歴を織り出していたのである。
 私は先に生理学的見地から『注意』につきての定義を下し、それは或る影像と関係を有する所の、特殊の脳細胞に向けられたる、一の神経力の流れであると言った。ここで諸君は疑うであろう、幽界居住者には、物質的の脳が無い筈ではないかと。が、待ってもらいたい。我々に物質的の脳髄はないが、しかし我々は一種の心霊的の網を有っている。この網の構造は、必ずしも人間の脳とはぴったり一致しない。即ちそれには脳髄のように、小さな神経区画が出来ていない。しかしその中には、やはり沢山の小中心が出来ていて、根源の統一体から、任意に心霊的のエネルギーを引き寄せる装置になっている。我々は非常に努力すれば、同時に注意を二ヶ所にも三ヶ所にも向け得るが、普通は一ヶ所にしか向けられない。特に地上と交通を試みるに当たりては、精神集中に多大のエネルギーを要するので、大体一時に一人との通信しか出来ないものと思わねばならない。その時通信を受け持っている中心、つまり我々の分霊は、専ら通信すべき材料に焦点を合わせているのであって、従ってその他の記憶は少しもその内部に宿っていない。換言すれば、他の問題を通信しようと思えば、我々は別の分霊を出さねばならないのである。
 (評釈)この一章も又幽明交通現象に対する人達にとりて、甚だ有益な教訓を与えるものである。一口に幽明交通と言っても、談何ぞ容易ならんやである。霊媒の方では深い統一に入りて、波長を成るべく他界の居住者に近付け、又他界の居住者の方では、成るべく思念を人間界の方に向けて、霊媒との連絡を講ずべく努める。ここで初めて両者の接近が出来るが、元々振動数の異なれる両者の間に交通を開こうとするのだから、そこに多大の無理が出来る。マイヤースは、他界の居住者が一つの体を二つに分け、従って自分の一部分だけが霊媒と交渉を開くのだと言っているが、私の実験から言っても、これは確かにその通りに相違ない。要するに幽明交通では、人格の一部分しか現れないのである。この間の消息を知らないと、幽明交通に対して到底正しい批判は下し兼ねる。