自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 可視の世界と不可視の世界との間には、実は間断なき思想の交錯が行なわれ、それが幽明交通をして一層困難ならしむる原因なのである。もしも我々が、生者と死者とから発送さるる無尽蔵の思想をば、一々これを分類し、区別し得るならば、その時は一切の雑音が消え失せて、どんなに通信が容易になるか知れないであろう。が、実際は何という混線状態であろう。我々死者は、しばしば人間の空想から造られた大森林の中に迷い込み、いつしかとんでもない岐路に踏み入りて、茫然自失するような場合に直面することが、実に多いのである。
 説明の前提として、私はここで人間の三種類の精神状態につきて一考察を試みたい。第一が熟睡の状態、第二が主観的状態、第三が通常意識の状態である。右の中主観的状態というのは、随分広範囲に亘り、多大の階段がある。例えば睡眠状態などもその一つで、人為的にこれを誘導することが出来る。術者によりて充分訓練を受けた被術者は、しばしば驚嘆すべき技量を発揮し、幼少時代の記憶を喚起したり、苦痛に対して無感覚であったり、その他思いもよらぬ知識を示したりする。インドのヨガ僧などは容易にこの状態に入り、遠距離にいる他人の消息などを探知して誤らない。要するに彼は精神的、主観的の旅をするのである。
 ところで、我々の境涯-諸君の所謂死者の境涯も、又同じく三様に分かれる。但し肉体を有する人間の意識とは、多少その間に趣を異にする所のあるのは無論である。我々が、地上の敏感者を用いて通信を試みようとする時は、我々は一種の入神、一種の主観的状態に入るが、これに軽重の二種がある。軽く入神した時には、我々は過去の生活の具体的事実と絶縁している。殊に霊媒を通じて直接通信する場合には、自分の人格や話し振り位は保ち得るが、地上生活の正確なる経歴などは中々通信し得ない。時とすれば自分の姓名すら述べられない。
 こうした通信に際して、時として我々を助けるものは所謂観念の連合-連想作用である。霊媒の潜在意識の中には、彼の過去の経歴の記憶が沢山浮遊している。ドゥかすると、我々はそれを手懸りとして、自分の地上生活の記憶を回復し、案外すらすらと通信し得る場合がある。
 次に深い入神状態-これは非常に気持のよい状態で、人間の睡眠又は夢に似ている。その状態に入った時に、我々は人間の主観的精神に入り得るが、勿論人間の方で、我々を助けてくれなければ困る。即ちその人が愛の絆で我々と結ばれるか、又はその人が、所謂霊媒的天分の所有者かでなければ、感応は不可能である。但しもしもそういった人間が、我々を助けてくれれば、我々は再び地上生活圏に歩み入りて、物質界の実況を目撃し、これをその人の潜在意識に印象させることが出来る。時とすれば極めて些細なる出来事までも、はっきり認識し得ることもある。殊に非常に深い入神状態に入った時などは、単に一個人の潜在意識と接触するに留まらず、一時に数千人の潜在意識にも接触し得るのである。そんな場合は、我々の前面に、さながら大海が展開したような具合である。その大部分は、何の事やら意味が判らないが、しかし守護霊の援助で、我々はその中から、我々の地上生活中に経験した出来事、姓名、地名等の連想を引っ張り出すことが出来る。それがつまり有力な証拠物件となるのである。
 が、第三の主観的状態こそは、我々の最高の境涯で、その状態に於いて我々は、宇宙の大記憶と接触するのであるが、遺憾ながら、これは地上との通信に於いて利用し得ない。それはただ多大の年月に亘りて修行を積み、特異の叡智に恵まれた霊魂のみが、極めて極めて稀に、地上の敏感者を用いて片鱗を漏らすに留まる。蓋(けだ)し最高の叡智は、到底低調なる人間の言葉で言い現し得るものでなく、従って僅かにその余響位が、所謂地上の天才者の筆端に現れるに過ぎない。
 無論我々は絵画を用い、又象徴的徽号(きごう)を用いて、霊媒の知らない姓名、又は言葉を通信することが出来ないではない。人間の通常意識というものは、一の障壁を造るが、その奥にはより深き自我、より主観的な心境があり、それには殆ど障壁がないのである。我々は困難なる問題の通信に当たりて、出来るだけそれを利用する。
 私は先に帰幽者が、こちらの世界の修行に没頭せねばならぬ結果、一時地上の記憶の大部分を放擲(ほうてき)すると述べたが、諸君はこれを聞いても、余り心を悩ますには及ばない。成る程我々は普通の状態にある時に、地上の記憶を失っているが、しかし第三の深い主観的状態に入りさえすれば、いくらでも地上の記憶を呼び戻し得る。死後の親子、又は夫婦達は、時としてその状態に於いて、生前の活歴史を再演することもある。地上生活中に経験した事柄は、ギリシャ語でも、ラテン語でも、地理でも、歴史でも、格別興味のない茶話会の愚談でも、許婚時代の情話でも、何でもかんでも、皆引っ張り出そうと思えば引っ張り出せるのである。
 が、我々の大部分は、一種の冒険的気分に富んでいる。死後の世界で愛する人と逢った当座は、ちょっと昔の情話などに耽ることもあるが、我々は直ぐにそんな過去の生活の遺物などに倦きてしまう。我々が第三の深い入信状態に於いて調べようとするのは、過去よりも寧ろ未来である。我々は『生命の書』の頁をば、先へ先へ先へと繰ろうとする。尚未だ地上に演出されたことのない戯曲(ドラマ)の耽読-これは我々にのみ許されたる特権である。予言者などの漏らしたのは、僅かにその余響に過ぎない。ああ我々の生んだ子孫の放浪、我々同民族の悲しき運命・・・我等は未来の記録を読破した時に、覚えず超然として長太息と共に、『生命の書』を閉じるのである。
 最後に一言するが、かく主観的状態に於いて、過去と同時に未来を読破すべく許されるのは、ただ精神的に発達した霊魂に限るのである。死の関門を通過した幾百千の霊魂達は、彼等自身の手で築き上げたる心霊的障壁の内部に閉じ込められて、とりとめのない夢幻的空夢に耽りつつ、或いは面白そうな、或いは又は不愉快そうな、取るにも足らぬその日その日を送るのである。

 (注)-幽明交通中の主観的状態とは、一種特別の精神統一状態で、すっかり自己の環境から隔離せねばならぬ。これと同様に人間の方でも、自動書記中は全然周囲の風物から隔離し、筆をとりて書きつつある世界の中に自己を没入せねばならぬ。右の隔離状態は、特に霊媒を通じて働く所の帰幽霊にとりて必要である。彼は通信を開始する以前に於いて、すっかり通信材料を準備しておいて、それから主観的状態に入りて霊媒の体を占領するのである。仕事を始めてからは、準備せる材料以外の通信は不可能である。(マイヤース)
(評釈)私が知れる限りに於いて、かくも幽明交通中の内面装置を、詳細明確に説明したものは未だ見当たらない。普通我々は幽明交通に関して霊媒のみを責め、『あの霊媒はインチキである。自分の姓名さえも名乗らぬようなことでは仕方がない』などと言うが、この批難はマイヤースの説明によりて、必ずしも正当でないことが判る。無準備の霊魂には、通信すべき材料の打ち合わせがないのである。そう言った霊が憑った時に、どんな名霊媒でも、歴然たる証拠資料を通信する訳には行かないに決まっている。
 もしそれマイヤースの所謂、優れた霊魂の深い主観状態に於ける未来の洞察-これは正に驚き入ったる大文字である。彼は英国の未来に対して、はっきりした見透しをつけているらしいが、大分言葉を濁している。『覚えず超然として長太息と共に姓名の書を閉じる・・・』この中にはアングロ、サキソン民族の前途に対する、微妙なる哀音が聞こえて来るではないか。
 兎も角も、私はこの一章が本書中の圧巻であると思う。読者の精読を希望する。