自殺ダメ


 (自殺ダメ管理人よりの注意 この元の文章は古い時代の難解な漢字が使用されている箇所が多数あり、辞書で調べながら現代で使用するような簡単な漢字に変換して入力しています。しかし、入力の過程で、間違える可能性もあります故、どうかご了承ください)

 死後の世界の行進者の中には、いつまでも意識の第三段、夢幻界に停頓している者が中々に多い。先入的観念に捕えられている既成宗教の信者などは、大抵これに属する。が、中には到底これに満足し切れず、神霊的単位としての、かかる孤立状態から綺麗に離脱し、同一系統の類魂達と一体となりて、進化の道程を躍進し、以ってよく個人的存在の彼方にまで進入する。これから説く所は、そうした進歩的の人達に対する準備である。
 『いかなる肉体も肉体以外の或物-魂によりて動かされる。肉体には自動的の性能がない。魂が働けばこそ、肉体は内から動かされ、魂が存在すればこそ、肉体には生命がある』-是は実に血と肉と神経とより成る、人間の正しき指導原理なのである。『心』なしに『肉体』は動かない。『心』は『肉体』以上のものである。
 若しも諸子が急激な死の場合を目撃するなら、この主張の正しいことは、容易に直覚し得られるに相違ない。心臓患者は今の今まで笑い、語り、遊び、又戯れる。ところが、その人は一転瞬の中に倒れてしまい、今までの運動も、生活機能も、跡形もなく消え失せてしまう。打っても、突いても、罵っても、少しの反応も起こさぬ、鈍き死体は、最早何の能力もないどころか、いつしか異臭を放って、顔を背けしむるのである。
 この実況を目撃しては、一人の人間をば、魂のなき只の器械であると何人が信じ得ようか。『大切な中身が何所かへ逃げてしまった・・』誰しもそう考えざるを得ないであろう。

 自分は曟(しん)に魂に定義を下して、生命のそれぞれの階段に於ける『現在意識』であり、存在の総量であると述べた。唯物論者以外のものは、人間を体、魂、霊の三つから成るものと信じているが、これは決して間違いではない。が、多くの人達は、魂の行進に階段があることを知らない。第五の光焔界に達すれば、各自の魂は、自己を局限する障壁を突破して類魂の中に混ざり、一方に於いて、自己の個性を保存しながら、他方に於いて、個人的存在の彼方に歩み入り、やがては、第六の光明界にまで進むことになるのである。
 各自がエーテル体を具えて、第三の夢幻界に止まる間は、程度の相違こそあれ、まだ人間性を保持している。
 が、更に進んで第四の色彩界に入り、形態のみの世界に於いて、意識的生活を営むようになれば、次第に人間性から離れ、地上生活中の表現形態とも、次第に遠ざかることになる。つまりこの境涯は、地上界の原型とも言うべき純美の世界であり、この界と地上界との相違は、正に巨匠の手に成れる原画と、未熟なる素人画家の手に成れる模造品とのそれに類似する。
 繰り返して言うが、或る一人の人格的存在(心霊的単位)は、類魂の一員であり、意識の各階段に置かれている他の人格的存在、即ち低い所では夢幻界、色彩界等の人物、高い所では光明界、超越界等の宇宙的存在と、同一系統の魂の所有者なのである。が、夢幻界に意識的生活を送っている間は、その人格が、まだ自我の全人格とは一致するに至らない。彼は物質の中に宿る部分だけの、自我意識の所有者でしかない。従って彼は、自己と不離の関係を有する、同一系統の他の魂達の歴史にも通ぜず、又彼の先在的経歴の知識をも有たない。夢幻界を突破し得たもののみが、初めて類魂の指導霊、自我の本体と交渉を起こし、人類と智慧の本源との連絡係たる資格が出来る。
 光焔界の修行というのは、つまり自我の全体と一致する努力で、それがすっかり完成した時に、初めて光明界へと進むことが出来るのである。
 人間が睡眠中に、その愛する死者と交渉を起こすのは、つまり一の意識生活から、他の意識生活に入ることであるが、類魂の行なうところは、要するにこれに外ならない。同一系統に属する類魂は、感情的に結び付けられている。愛は結局宇宙引力の一種であって、互いに愛する魂と魂とは、たとえ両者が別々の意識の世界に居住していようとも、相互に引き付けられる。死は決して両者を引き離す、永遠の関所ではないのである。
 かの偉人、預言者、天才者と称せらるる人達は、多くの場合に於いて、右に述べるが如き一の神通的集団の一員である。それ等の人達は、大抵第五界、第六界を目指して進み、従って個人的存在の彼方に歩み入りつつある。それ等の人達の眼から観れば、この第二流の遊星でしかない地球上の存在の如きは、さして興味を惹くものではなく、地上生活をば、過去の経歴に於ける単なる一小過程と見做して、より高き精神的飛躍の、無限の世界へと前進を続けるのである。
 偉大なる魂は、時として一介の無名の士の肉体に宿ることもある。彼は極度に無我、極度に高潔、淡々として水の如き生活を送るので、一般大衆は全然これを看過し、従ってその人の死は、殆ど何人からも顧みられない。彼の地位は往々にして極めて低い。彼は単なる職工、書記、漁人、又は農夫でしかない。が、それにも係わらず、かかる人物こそ、しばしば類魂から直接の指導を受ける完全人なのである。不可視の世界に於いて、最高者がしばしば最下者であり、最下者が時として最高者であらねばならぬ所以である。
 私の所謂『魂の人』と呼ぶ人達の或者は、実にこうした最後の地上生活を送るが、この一見花も実もなき、消極的な生活の間にこそ、彼はより広き人格の準備を、着々として築きつつあるのである。
 これを要するに、人生の旅路は千紫萬紅、到底人智の想像し得る限りでない。が、何れの道を取るにしても、各自は一歩一歩に過去の行績を双肩に担ぎつつ、不可知、不可測の宇宙の海へと入り行くのである。

 第五界に於ける魂の最大事業は、自己の能力を開拓することによりて、自己を一の心霊的組織体の中に融合せしむることである。私の所謂神霊的組織体とは、要するに類魂の拡大であり、又拡充である。そこでは別種類、別性質に属する諸々の存在が互いに融合し、協力して、従来よりも一層高き標準の集団を構成するのである。ここに至りて、地上の人間的拘束は次第に消失し、我々は宇宙的に考え、やがて宇宙的に活動することにもなる。これが実に我々の進化途上の一新紀元であって、我々は最早自分自身を大宇宙間の孤立的存在、かりそめの物質の世界に宿った経歴を有つ、一の奇形児であるとは考えないようになる。夢幻界に居る間の人間は、まだ潜在意識的に、或る程度の孤独感、不可知の環境からの圧迫感、恐怖心から脱却し得ない。が、第五界に達した時に、その恐怖は消え失せ、我々も又偉大なる心霊的組織体の、一構成要素であることに気付いて来る。そうなると宇宙は自分の親しき友であり、従来夢想だもしなかった無数の新境地が、次第に我々の視聴に入って来る。
 遊星、太陽、月、無数の星辰-それ等が皆根本的に、我々と切っても切れぬ不離の関係を有していることが、ありありと感知されて来る。
 これ等の隠微なる世界こそは、実に永劫の苦闘と、進化との記念塔である。それには傷ましき古傷の痕も残っていれば、又無上楽、無量光の印象も刻まれている。そしてそれ等一切の経験が、皆心霊的組織体の中に保存されているのであるから、ここに発揮さるる神智のいかに優秀であり、又その威力のいかに絶大であるかは、到底想像に余りあるではないか。そこにはただ生を地球に享けたるものの経験が、蓄積せられているばかりでなく、実に各種の太陽系所属の遊星上の経験が、蓄積されており、そしてそこの居住者達は、何れも光焔の形態をとりて、天界狭しと天駆けりつつあるのである。霊分の相違で、各自の悟りの道は、それぞれ行き方を異にするが、しかし何れも皆窮極に於いて、全大宇宙との融合一致を目指して、神智を磨き、神力を養い、一切の区別、一切の孤独感、一切の恐怖心から離脱すべく、心魂を練りつつあるのである。
 (評釈)断片的、即興的の叙述ではあるが、死後の世界の高層、彼の所謂『個人的存在の彼方』に於ける心霊的生活が、非常によく描かれており、最も貴重なる示唆を我等にあたえてくれると謂ってよい。
 優れた帰幽者からの通信によれば、あちらの世界の殆ど唯一の修行法は、精神統一であるらしいが、これは取りも直さず、魂の飛躍を遮る障壁の突破が眼目である。マイヤースは、進歩の道程を夢幻界だの、色彩界だの、光焔界だのに分類しているが、勿論これは発達程度の相違に附した、一の名称と見てよい。要するに幽界の修行というのは、自己と自己の同一系統に属する類魂(私の所謂守護霊も類魂中の一員)との融合一致を、第一の目標とするのである。私が精神統一の修行に於いて、本人と守護霊との感応道交を、最大目標とするのもこの為である。守護霊に対する心の眼が開くれば、やがて類魂に対する心の眼も開けて来る。そして最後に類魂の指導霊、自我の本体との交渉が起こって来る。自我の本体は勿論超人間的実在-自然霊である。
 マイヤースが偉人、預言者、天才者、又無名の英雄等につきて述べる所も、ほぼ首肯される。これにつけても我々は外貌、境遇等によりて他を評価することの危険を痛感する。
 末尾に述べている『心霊的組織体』の説明は、誠に貴重なる文字である。日本神道の根本精神は、ほぼ遺憾なくマイヤースによりて説き尽くされている。『遊星、太陽、月、星辰-それ等が皆根本的・・・・我々と切っても切れぬ不離の関係を有っている事が、ありありと感知されて来る』-何という卓抜たる見解であろう。更に『そこの居住者達は、何れも光焔の形態をとりて、天界狭しと天駆りつつある』に至りては、正に天孫降臨その他の記事の注釈である。地上の物質界のみを眼中に置いて、日本の神代史を説くが如きは、正に言語道断の処置である。ああ何れの日か、日本国のせめて知識階級だけでも、ここまでの心境に到達することか。憮然として長大息を禁じ得ないものがある。