自殺ダメ


 [霊界通信 新樹の通信](浅野和三郎著)より

 (自殺ダメ管理人よりの注意 この文章はまるきり古い文体及び現代では使用しないような漢字が使われている箇所が多数あり、また振り仮名もないので、私としても、こうして文章入力に悪戦苦闘しておる次第です。それ故、あまりにも難しい部分は現代風に変えております。[例 涙がホロホロ零る→涙がホロホロ落ちる]しかし、文章全体の雰囲気はなるべく壊さないようにしています。その点、ご了承ください。また、言葉の意味の変換ミスがあるかもしれませんが、その点もどうかご了承ください)

 新樹は日露戦役の起こった明治三十七年六月十日、我等夫婦の間の二男として横須賀軍港で生まれました。彼は稀に見る白哲肥大の小児で、引き続いてずっと健全、やや長ずるに及び中々の腕白小僧となりました。彼が五、六歳の頃新調のナイフの切れ味を試すつもりで、新しい箪笥の角を削り取った事は家庭の笑い話として後々まで語り伝えられました。
 小学教育は横須賀市の豊島小学校で受けましたが、何時も首席で、どの学課も殆ど満遍なく出来ましたが、特に目立っていたのは絵書で、ちょっと器用な書才を見せました。
 その頃彼の父は血気盛りで土曜から日曜にかけてはよく遠足を試み、又夏は欠かさず水泳を試みましたが、新樹はよくその相伴を務めました。三浦三崎、逗子、葉山、鎌倉、金沢等の諸地方で彼等の足跡を印せぬ所は殆どないと言ってよい位、又海では父の腰に紐でくくしつけた浮子に掴まってしばしば猿島付近まで遠泳ぎをしました。
 新樹の中学教育は全部福知山中学で受けましたが、ここでも成績は優等で、ずっと特待生を続けました。在学中家庭から通学したのはホンの最初数ヶ月間だけで、その他は最後まで寄宿舎に居続けました。かくて卒業と共に長崎の高商に入学し、良い成績で同校三年の過程を終わりました。時に数え年正に二十二。
 この間に彼の身材は段々延びて、五尺を越すこと五寸、六寸、七寸となりました。同時にその趣味や傾向も次第に定形を為して来ました。彼の父母にとりて寧ろ意外だったのはその幼時の腕白性が段々薄らぎ、寧ろ社交的要素と言ったようなものが多量に加わって来たことで、その道楽の如きも音楽、絵書等が第一に数えられました。ハ-モニカでは確か長崎高商音楽団の選手だった筈です。と言って、彼の性情はどこまでも円満に出来ていて、活発な運動競技、例えばボート、ベースボール、スケート、テニス、山登り等にも相当手を出したらしいのです。
 大正十四年学校を巣立ちした彼は直ちに古河電気工業株式会社に入り、東京の本社に勤務することになりました。丁度その頃彼の家族も鶴見に移り住むことになったので、間もなく彼は鶴見に来たり住み、大連支店に勤務を命ぜられるまで、久しぶりで約一年間父母弟妹と家庭団欒の楽しみを味わいました。若くて死んだ彼に取りてこれがせめてもの、現世生活の楽しい思い出の種子だったでありましょう。
 彼は昭和二年二月の末に大連に赴任し、以来支店長や同僚の気持も至極良好で、熱心に社務に精励していました。翌三年の七月彼の父は満鉄の途次大連に立ち寄り、同十四日から十八日まで足掛け五日間、専ら彼を案内者として、見物に、訪問に、又座談講演に多忙な時日を送りましたが、特に十七日の旅順見物、203高地の登臨、夜に入りて老虎灘の千勝館に戻って来ての水入らずの会食の状況などは、今も彼の父の心の奥にはっきりと刻まれております。
 当時の新樹には露だに不健康な模様は見えませんでした。ただ十四日バイカル丸から下船して一年半ぶりで埠頭で我が子に会った時の第一印象は、彼がいつの間にかずっと大人びて来たということでした。それから彼の父は無事に欧米の心霊行脚を終わり、同年の暮れに鶴見に戻って来て、正月を済ませ、いささか寛ぎかけた二月の二十七日に突如新樹が黄疸にかかり、満鉄病院に入ったという飛電に接しました。二つ三つ電報の交換をやっている中に、その翌二月二十八日の夕刻には早くも彼の死を伝える電報を受け取りました。その際は策の施すどころか、殆ど考える隙さえありませんでした。
 新樹の遺した日記帳を紐解いて見ても、彼が病気に対し、又死に対して、全然不用意であった模様がよく窺われます。二月十二日の部に『昨日から風邪気味で今朝は十一時出社す。夜は読書』とあるのが、彼の健康異状を物語る唯一の手掛かりです。もっとも日記が二月十三日で終わり、それから全然空白になっている所を見ると、その頃は筆を執るのも相当大儀だったのでしょう。そのくせ同十七日、即ちその死に先立つことたった十一日というのは彼は同僚二、三人と星ヶ浦に遊び、その際同所で撮った写真には、例の如く両手をズボンのポケットに突っ込んで、大口開いてカラカラと笑いこけています。聞けば二十六日の朝まで殆ど何の異状をも認めなかった病状が、その日の昼頃にわかに亢進して脳を冒し、それっきり充分に意識を回復しなかったのだといいます。満鉄病院に於いても無論昏睡状態を続け、そのまま死の彼岸へ旅立ったということで、正気で死に直面するの苦痛を免れたことは、本人にとりて幾分幸福であったかも知れません。兎に角あまりにも碌い碌い死に方ではありました。
 父の手によりて持ち帰られた彼の遺骨は鶴見總持寺の境内に埋められ、一片の墓標がその所在を示しております。が、そんなものは殆ど無意義に近い物質的記念物に過ぎません。彼の現世に遺すべき真正の記念物が、彼岸の彼が心を込めて送りつつある、その続物の通信であることは申すまでもありません。

 昭和六年八月二十日 編者誌
       
       
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