自殺ダメ



 [ベールの彼方の生活(二)]P190より抜粋

 1913年12月19日 金曜日
 「神はあなた方の信念に応じてお授けになる」-このイエスの言葉は当時と同じく今もなお生きている。絶対的保証をもってそう断言出来る。まず必要なのは信念なのである。信念があれば事は必ず成就される。成就の方法は様々であろう。が、寸分の狂いもない因果律の結果であることに変わりはない。
 さて、これは地上世界に限られたことではない。死後の向上した界層、そしてこれ以後も果てしなく向上して行く界層においても同じである。我々が成就すべく鋭意努力しているのは、実際の行為の中において確信を得ることである。確信を得れば他を援助するだけの霊力を身に付け、その霊力の行使を自ら愉しむことも出来る。イエスも述べたように、施されることは喜びであるが、施すことの方がより大きな喜びであり愉しみだからである。
 が、信念を行使するに当たり、その信念なるものの本質の理解を誤ってはならない。地上においては大方の人間はそれに至って曖昧に-真実についての正しい認識と信頼心の中間に位置する、何やら得体の知れないものと受け止めているようである。が、何事につけ本質を探る我々の界層においては、信念とはそれ以上のものであると理解している。すなわち信念も科学的分析の可能な実質あるエネルギーであり、各自の進化の程度に応じた尺度によって測られる。
 その意味をより一層明確にする為に、こちらでの私の体験を述べてみよう。
 ある時私は命を受けて幾つかの施設(ホーム)を訪ね、各施設での生活の様子を調べ、必要な時は助言を与え、その結果を報告することになった。さて一つ一つ訪ねていく内に、森の外れの小じんまりとしたホームに来た。そこには二人の保護者のもとで大勢の子供が生活している。お二人は地上で夫婦だった者で、死後もなお手を取り合って向上の道を歩みつつある。彼らが預かっているのは死産児、つまり生まれた時既に死亡していたか、或いは生後間もなく死亡した子供達である。こうした子供達は原則として下層界にある〝子供の園〟には行かず、彼ら特有の成長条件を考慮して、この高い界層へ連れて来られる。これは彼らの本性に地臭が無いからであるが、同時に、少しでも地上体験を経た者、或いは苦難を味わった子供に比べて体質が脆弱である為に、特殊な看護を必要とするからでもある。
 お二人の挨拶があり、更にお二人の合図で子供達が集まって来て、歓迎の挨拶をしたが、子供達は一様に恥ずかしがり屋で、初めの内は容易に私の語りかけに応じてくれなかった。それというのも、ここの子供達は今述べた事情のもとでそこへ連れて来られているだけに性格がデリケートであり、私もそうした神の子羊に対して同情を禁じ得なかった。そこであれこれと誘いをかけている内に、ようやくその態度に気さくさが見られるようになってきた。
 その内可愛らしい男の子が近付いてきて腰のベルトに手を触れた。その輝きが珍しかったのであろう。もの珍しげに、しげしげと見入っている。そこで私は芝生に腰を下ろし、その子を膝に抱き、そのベルトから何か出してみせようかと言ってみた。すると初めその意味がよく判らない様子であった。そして次に、ほんとにそんなことが出来るのだろうかという表情を見せた。
 が、私が更に何が欲しいかと尋ねると、「もしよかったらハトをお願いします」と言う。中々丁寧な言い方をしたので私はまずそのことを褒めてやり、更に、子供が素直に信じてお願いすれば、神様が良いことだとお許しになったことは必ず思い通りになるものであることを話して聞かせた。
 そう話してからその子を前に立たせておき、私は一羽のハトを念じた。やがて腰のベルトを留めている金属のプレートの中にハトの姿が見え始めた。それが次第に姿を整え、遂にプレートからはみ出る程になった。それを私が取り出した。それは生きたハトで、私の手のひらでクークーと鳴きながら私の方へ目をやり、次にその子の方へ目をやり、どちらが自分の親であろうかと言わんばかりの表情を見せた。その子に手渡してやると、それを胸の所に抱いて、他の子供達の所へ見せに走って行った。
 これは実は子供達をおびき寄せる為の一計に過ぎなかった。案の定それを見て一人二人と近付いて来て、やがて私の前に一団の子供達が集まった。そして何かお願いしたいがその勇気が出せずにいる表情で、私の顔に見入った。が、私はわざと黙って子供から言い出すのを待ち、ただニコニコとしていた。と言うのは、私は今その子達に信念の力を教えようとしているのであり、その為には子供の方から要求してくることが絶対必要だったのである。
 最初に勇気を出してみんなの望みを述べたのは女の子であった。私の前へ進み出ると、その可愛らしいくぼみのある手で私のチェニックの縁を手に取り、私の顔を見上げて少し臆しながら「あの、出来たら・・・・」と言いかけて、そこで当惑して言いそびれた。そこで私はその子を肩の所まで抱き上げ、さあ言ってごらん、と促した。
 その子が望んだのは子羊であった。
 私は言った。今お願いしてあるからその内届けられるであろう。何しろ子羊はハトに比べてとても大きいので手間が掛かる。ところで、本当にこの私に子羊が作れると信じてくれるであろうか、と。
 彼女の返事は至ってあどけなかった。こう答えたのである。「あのー、みんなで信じてます」私は思わず声を出して笑った。そしてみんなを呼び寄せた。すると、翼のついたハトが作れたのだから毛の生えた子羊も作れると思う、と口々に言うのである。(もっとも子供達は毛のことを毛皮と言っていたが)
 それから私は腰を下ろして子供達に話しかけた。まず〝我らが父〟なる神を愛しているかと尋ねた。するとみんな、勿論大好きです、この美しい国をこしらえ、それを大切にすることを教えて下さったのは父だからです、と答えた。そこで私がこう述べた。父を愛する者こそ真の父の子である。子供達が父の生命と力とを信じ、賢くそして善いものを要求すれば、父はその望み通りのものを得る為の意念の使い方を教えて下さる。動物もみんな作れるであろうから私がこしらえてあげる必要はない。但し初めにしては子羊は大き過ぎるから今回はお手伝いしてあげよう、と。
 そう述べてから、子供達に心の中で子羊のことを思い浮かべ、それが自分達の所へやって来るように念じるように言った。ところが見たところ何も現れそうにない。実は私は故意に力を抑え目にしておいたのである。暫く試みた後一息入れさせた。
 そしてこう説明した。どうやら皆さんの力はまだ十分でないようであるが、大きくなればこれ位のことは出来るようになる。但し祈りと愛をもって一心に信念を発達させ続ければのことである、と。そしてこう続けた。
 「あなた達にも力はちゃんとあるのです。ただ、まだまだ十分でなく、小さいものしか作れないということです。では私がこれから実際にやってみせてあげましょう。後はあなた方の先生から教わりなさい。あなた達にはまだ生きた動物をこしらえる力はありませんが、生きている動物を呼び寄せる力はあります。この辺りに子羊はおりますか?」
 この問にみんな、この辺りにはいないけど、ずっと遠くへ行けば何頭かいる。つい先頃そこへ行ってきたばかりだという。
 そこで私は言った。「おや、あなた達の信念と力によって、もう、その内の一頭が呼び寄せられましたよ」
 そう言って彼らの背後を指差した。振り向くと、少し離れた林の中の小道で一頭の子羊が草を食んでいるのが目に入った。
 その時の子供達の驚き様はひと通りでなかった。啞然として見つめるのみであった。が、その内年長の何人かが我に帰って、歓喜の声を上げながら一目散に子羊目掛けて走って行った。子羊も子供達を見て、あたかも遊び友達が出来たのを喜ぶかのように、ピョンピョンと飛び跳ねながら、これ又走り寄って来た。
 「わぁ、生きてるぞ!」先に走り寄った子供達はそう叫んで、後からやって来る者は早く早くという合図をした。そして間もなくその子羊はまるで子供達がこしらえたもののように、もみくちゃにされたのであった。自分達がこしらえたものだ、だから自分達のものだ、という気持を余程強く感じたものと察せられる。
 さて、以上の話は読む者の見方次第で大して意味はないように思えるかも知れない。が、重要なのはその核心である。私は自信を持って言うが、こうして得られる子供達のささやかな教訓は、これから幾星霜を重ねた後には、どこかの宇宙の創造にまで発展するその源泉となるものである。今宇宙を支配している大天使も小天使も、その原初はこうした形で巨大な創造への鍛練を始めたのである。私が子供達に見せたのが実に〝創造〟の一つの行為であった。そして私の援助のもとに彼らが自ら行なったことはその創造的行為の端緒であり、それがやがて私がやってみせたのと同じ創造的行為へと発展し、かくして信念の増加と共に、一歩一歩、我々と同じくより威力あるエネルギーの行使へ向けて向上進化して行くのである。
 そこに信念の核心がある。人間の目に見えず、また判然と理解出来なくても、その信念こそが祈りと正しい動機に裏打ちされて、自らの成就を確実なものとするのである。貴殿も信念に生きよ。但し要心と用意周到さと大いなる崇敬の念も身に付けねばならない。信念こそ主イエスが人間に委ねられた、そして我々には更に大規模に委ねられた、大いなる信託の一つだからであり、それこそ並々ならぬイエスの愛のしるしだからである。
 そのイエスの名に祝福あれ。アーメン

 ザブディエルという霊からの通信
       
       
自殺してはならない霊的な理由 自殺志願者は、まず[自殺の霊的知識]を読んで!
[自殺の霊的知識]へ