自殺ダメ




 [コナン・ドイルの心霊学]コナン・ドイル著 近藤千雄訳より

 P221より抜粋

 新約聖書には、初期キリスト教時代の〝しるしと不思議〟と、近代スピリチュアリズムにおける実験室内での心霊現象との間の類似性を辿って行く上で、格好の材料となるものが幾つも見出される。
 そもそもキリスト教がこれまで人類に対して長期に亘って影響力を保ってきた原因は、その固有の神学にある。ところが、その教義の一つ一つを見ていくと、霊性が麻痺した人類の目を覚まさせ、新しい啓示に目を向けさせるという目的において初めて意義を持つ驚異的現象とは、およそ縁のないものばかりである。本来ならばそれを土台として神学を打ち立てるべきだったのである。新しい霊的真理も、日常的体験や能力を超えた、人間の力ではいかんともし難いエネルギーの顕現に目を向けたことから発見されてきたものである。既に用いた譬えをもう一度使わせてもらえば、心霊現象は電話のベルで、それが途方もなく貴重な啓示の到来を告げてくれたのだった。
 キリストについても同じことが言える。〝山上の垂訓〟は、それまでの数々のしるしと不思議を土台としたキリストの生涯のクライマックスであり、現象より何倍も大切なものである。お粗末な精神構造の持ち主は、パンや魚が奇跡的に増えた話だけを取り挙げて、キリストのしたことを低俗と決め付けるかも知れない。そういう人は、同じ手法で、交霊会でテーブルが動き出したりタンバリンが宙に舞う現象を見て、スピリチュアリズムを低俗と決め付けることであろう。が、肝心なのはそうした粗野な現象そのものではなくて、その裏にある高級界からの働きかけなのである。