自殺ダメ




 [コナン・ドイルの心霊学]コナン・ドイル著 近藤千雄訳より

 P228より抜粋

 私が特に感動を覚えるのは、ユダヤ教の狂信者達がイエスを試そうとして、姦淫を犯した女性を連れて来た場面での、イエスの取った態度である。
 「モーゼの律法では、こういう女は石で打ち殺せとあるが、どう思うか」
と尋ねられたイエスは、一気にやり返すかと思いきや、黙ってその場にしゃがみ込み、何やら指先で地面に書き始めた。が、何度もしつこく質問を浴びせられて、やおら身を起こしたイエスは、かの有名なセリフを吐いた。
 「よかろう、石で打ち殺すがよい。が、最初に石を投げるのは、一度も罪を犯したことのない者にしてもらおう」(ヨハネ8章)
 こうしたイエスの態度は、とても神学者にはまともな解釈は出来ないであろう。あえて私の解釈を述べさせて頂けば、あの時イエスは自動書記で背後霊団からの通信を受け取っていたのである。イエスといえども生身の人間である。人類として稀に見る霊的能力を持っていたとはいえ、それを四六時中行使していたわけではない。右の例のように、不意を突かれた形で難問をふっかけられた時は、間を置いて背後霊団からの指示を仰いだのである。
 次に、こうしたイエス・キリストの〝しるしと不思議〟をユダヤ教信者が目の前にした時、或いは、そういう話を耳にした時の反応を現代と比較してみると、これまた興味深い。大部分の者が信じなかったことは明らかである。そうでなかったら、すぐさまイエスの信奉者となっていたか、少なくとも感嘆と敬意の念をもって対するようになった筈である。奇跡を見せられて、髭もじゃの顔に不審の念を露にして「そんなバカなことがあるわけがない」と言い、どこかの奇術師の話でも引き合いに出している光景が目に浮かぶようだ。
 更には、現象そのものは認めても、それを全て悪魔の仕業に帰して、「それはあいつの言ってることを見れば分かるじゃないか」と、常識的ではあってもユダヤ教徒にとっては辛辣な見解を引き合いに出して、得意になっている顔が浮かんで来る。
 こうした嘲笑派と悪魔論者の双方共、現代もそっくりである。げに、太古より地球は回り、その表面で同じ歴史が繰り返されて来ているのだ。