自殺ダメ




 [コナン・ドイルの心霊学]コナン・ドイル著 近藤千雄訳より

 P229より抜粋

 霊的能力の可能性に興味のある方から出されそうな話題の一つに、霊能者のパワーを一時的に普通の人に貸すことが出来るのはなぜか、又、どれ位の時間それが可能なのかというのがある。D・D・ホームの霊能の中でも最も多く実験されたものの一つに、燃え盛る石炭を素手で握ってみせる現象があるが、その後それを列席者の頭の上に乗せても、全く火傷をしなかった。
 カーター・ホールという人がしなやかな銀髪をかき分けて、そこへ真っ赤に燃える石炭を置いてもらい、その上に髪を被せるという実験を何度か試した記録が残っているが、彼の妻の証言によると、その後櫛で髪を整えてあげたら、石炭の燃え殻が落ちていたのに、髪一本、焦げていなかったという。
 この場合、ホームは超能力パワーを一時的にホール氏に貸し与えていることになる。同じことが、キリストとペテロとの間にもあった話がバイブルに出ている。
 キリストが水の上を歩いてやって来るのを見て、ペテロが「私にも歩かせて頂けませんか」と言うとキリストが「ではおいで」と言う。歩いてみると確かに歩けた。が、もう少しでキリストの所まで来る寸前に強い風が吹いて、それで急に怖くなった。すると、途端に水中に沈みかけた。咄嗟にキリストが手を差し延べて救い上げ、「まだまだ信じる心が足りない。なぜ疑ったのか」と言ったという(マタイ14章)。
 その〝貸し与えたパワー〟はどれ位持続するものだろうか。このことに関連して私が思い出すのは、同じくバイブルの中でキリストを中心とするサークルの者が、七十人ばかりの信徒に悪霊を追い出す仕事を言いつけて送り出した話、又、新しい信徒が修業の旅に出るに際して、〝清めてもらう〟為にエルサレムのキリストのもとに戻って来させた話である。
 その時に、キリストは頭に手を置いたり、頭上で空を切ったりしてパワーを注ぎ込んだのではないかと思われる。現在、聖職位を授与する儀式で主教達がやっているのがそれで、本来は霊的パワーを注ぎ込むのが目的だった筈である。それが時の経過と共に風化し、形式だけが残ってしまった。今日では祝福を施す側も受ける側も、その本当の意味は分かっていない。〝手を置く〟[按手(あんしゅ)]という儀式は、手そのものを置くことの他に大切な意味があるのである。