自殺ダメ



 その決意は首尾よく果たされることになる。明治学院大学・文学部・英文学科へ進んだ私は、早速銀座の洋書の老舗〝丸善〟へ足繁く通うことになった。必ずしも買うのが目的ではなく、所狭しと並べてある原書を眺め、時折手に取って開いては、そのハイカラな匂いを嗅ぐのが楽しくて仕方がなかった。
 勿論、俗に〝マイヤースの通信〟と呼ばれている『永遠の大道』と『個人的存在の彼方』の原書は、直ぐに注文しておいた。届くまでに当時は三ヶ月も掛かったが、しょっちゅう通っていたせいもあって、大して長いとも思わなかった。
 浅野和三郎が抄訳した右の二著は、ジェラルディン・カミンズという作家の手が、無意識の内に動いて書き綴ったもので、通信者はかつて地上で古典学者で詩人だった、フレデリック・マイヤースである。この人は晩年になって心霊研究に没頭し、大著『人間の個性とその死後の存続』という、辞典のような大部の上下二巻を残している。この著作の為の疲労が命を縮めたとさえ言われる労作であるが、私は運良くそれを翌年、すなわち昭和三十年八月五日に購入している。
 それを購入するに際して忘れられないエピソードがある。当時の私への仕送りは八千円だった。平均一万円の時代だったから少ない方だった上に、原書が一冊二千円前後もする時代でもあったので、家賃の三千円を払い、原書を一冊買っただけで、もう、後が苦しかった。節約するのは食事代しかない。そんな時にこのマイヤースの原書を丸善で見つけた。夏休みの直前だった。が、六千円もする。今見ても最後のページに2 vols.6,000-という鉛筆書きが消えずに残っている。二巻で六千円である。とても買える値段ではない。
 しかし、喉から手が出る程欲しい。夏休みに入って帰省した時に、どういう言い方をしたかは今は覚えていないが、とにかく欲しくて仕方がない原書があるけど、高くて買ってもらえそうにないといった意味のことを、母に言った。すると母が「ちょっと来なさい」と言って、和ダンスのある部屋に行って、その前に座って一番下の引き出しを開けた。その一番底から派手な着物を引っ張り出して
 「これは母さんが嫁入りする時に持って来たものだけど、もう着る機会はない。イザという時はこれを売ってでもお金をこしらえてあげるから、買いたい本を遠慮しちゃ駄目。その本は是非買いなさい」
と、鋭い目つきで私を見据えながら言った。そして、更にこう続けた。
 「物はいつかは朽ちるし、持ち運びが大変だけど、知識は絶対に邪魔にならないから、入れられる時に入れられるだけ頭に入れておきなさい」
 その二冊を見るといつもそのことを思い出す。日付が八月五日となっているが、これは、買ってもらえるとなると誰かに先に買われはしないかと心配になり、一ヶ月早く上京して買い求めたからである。