自殺ダメ



 私の両親は、当時日本の植民地だった台湾で結婚している。父は警察学校を卒業したばかりで、赴任先への汽車の旅が新婚旅行となった。母の父親がその学校の教官だった。そして仲人はその学校の校長・坂口主税(ちから)氏で、終戦後間もなく衆議院議員を五年、更に三十一年から熊本市長を二期務めている。
 私は六人兄弟の三番目で、この写真(別に掲載する必要性は感じないので未掲載by自殺ダメ管理人)の時には生まれていないが、後二人、妹と弟がいる。長男を除いて、残り五人は今も健在である。その長兄の死が、敗戦という日本国にとって未曾有の体験と共に、近藤家にとって大きな意味を持つことになる。
 当時、父は警官として、台北・台南・台中その他の各地を転任することが多かったらしい。辣腕(らつわん)だったので、大きな事件、難事件が発生すると、そこへ送られたらしい。それだけに出世もトントン拍子に進んで、敗戦で解体される時の地位は新竹州の軍警察の最高指揮官だった。
 さて、敗戦の年となる昭和二十年に入ってからは、外地の台湾でも米軍の空襲が日増しに激しくなり、我々家族は田舎へ疎開した。その疎開先で長兄の事故死という不幸が待っていた。中学三年生だった兄は、毎日弁当だけ持って、トーチカ(コンクリートの要塞)を構築する現場へトラックで運ばれていた。バスの停留所に生徒達が集まっている所へ陸軍のトラックがやって来て、みんな大股で乗り込むのであるが、そうした光景が、後で大きな意味を持つことになる。