自殺ダメ



 さて、いよいよ当日、すなわち昭和20年8月16日である。前日の〝玉音放送〟はみんな何のことかよく理解出来ず、日本は敗けたと本気で思った人はいなかったようである。母の話によると、夕方帰宅した兄に次兄が「日本は敗けたらしいよ」と言った時は、「お前は人の言うことを直ぐに信じる!」と言って、とても怒ったという。
 が、その朝の兄はいつになく元気がなく、起き上がっても布団の上でじっとしていたという。古神道では人間には精神を司る〝魂(こん)〟と、肉体を司る〝魄(はく)〟とがあるという。既にその時、兄の身体から〝魄〟が脱け出ていたのであろうか。
 「豪(ひで)ちゃん、どこか具合でも悪いの?」
と母が尋ねると
 「いいや」
と、間延びのした言い方で応えながら、気だるそうに立ち上がったという。
 学生服に着替えた兄は、元気なく食事を終え、弁当だけを持って、元気のない声で「行ってきます」と言って出て行った。ところが十数メートルも行った所で後戻りして来て「水をちょうだい」と言って、炊事場へ行って柄杓で飲んだ。その様子を見た母の胸に、又しても不吉な予感がしたという。もしかしたら別れの水盃では・・・と。そして、事実、それが十数分後に現実となるのである。