自殺ダメ



 同一人物が二つの場所において同時に姿を見せる現象をバイロケーションといい、三つの場所で同時に観察される場合をトライロケーションという。いずれも古くからある用語で、最初は聖職者の間で言われ始めた言葉である。所謂〝聖人〟と呼ばれた人にそういう現象が見られたからである。離脱した幽体は肉眼には映じず霊視能力のある者にしか見えないのが普通であるが、バイロケーションの例でその場に居合わせた人全員によって観察され、しかもその幽体で物体を動かし、普通の人間と同じ行動をしたというケースがある。イタリアの研究家E・ボザーノは貴重な著書「バイロケーションの現象」Phenomena of Bilocation by Ernesto Bozzano の中で、バイロケーションという用語を全ての幽体離脱現象に適用しているが、これは間違いである。
 よく引用されるものにスペインの修道女マリヤ・デ・アグレダの例がある。この尼僧は突然昏睡状態に陥り、その間に海を越えてニューメキシコへ運ばれていくのを自分でも意識していて、行った先でインディアンに向かって説教をするといったことが百回以上もあったという。メキシコの修道士ベナビデスは1630年にヨーロッパを訪れてこの現象を確証付ける調査を克明に行なっている。このケースでは肉体はその間死体同然の状態となっていた。
 デュ・プレルが指摘するところによれば、サンスクリット語の majavi-rupa は意図的な幽体離脱を指しているという。そのワザを身に付けたインドの達人は豊富な生命力と意識とを自由自在に操って本当のバイロケーション、つまり同時に二つの場所にいて活動し意識を持ち続けることが出来るということになっている。が、実際問題としてその段階まで到達するのは大変なことであり、多分その用語は確立された現実ではなく、それを理想としたものと解される。
 近代のインドの書 Paramhamsa Yogananda (あるヨガ僧の自伝)にも幽体離脱の例が載っている。瞑想中に幽体が離れて通りにいる友人の所へ行って伝言を授けるのであるが、授けられた友人はそれをヨガ僧本人と思い込んでおり、声を普通に聞こえている。が、その場合も肉体の方に何の動きも見られなかったという。いずれにしても、その事実が正確であるとすれば、実証性をもった意図的な離脱の成功例と言える。
 次の例が示すように、同時に二つの意識が活動する場合の謎を解くカギは、どうやら〝歩行運動〟と同じように潜在意識的な活動と見なすことにあるようである。J・カーナー博士が報告した中の一例であるが、F判事が書記官に隣の町への用事を言いつけた。暫く経ってからその書記官が判事の部屋へノコノコと入って来て、書棚から一冊の本を取り出した。とっくに隣の町へ行っているものとばかり思っていた判事は驚いて、何故直ぐに出掛けないのかと叱りつけた。するとその場で書記官の姿が消え失せ、本が床の上に落ちた。判事がそれを拾い上げて、開いたままテーブルの上に置いた。
 さて、隣の町での用事を終えて帰って来た書記官に事の次第を質問すると、用事を言い付けられた後すぐさま出掛けたが、途中で友人と一緒になり、道中をある植物のことで議論しながら歩いていたという。そして自分の説に確信のあった書記官は、もし事務所にいればリンネの本のどこそこのページにそのことが出ているから確かめられるのにと思ったという。判事が拾い上げてテーブルに置いた本は丁度そのページが開かれていた。
 ここで興味深いのは、幽体が本を取り出して目的のページを開くという物理的活動が出来たということである。更に興味深いのは、その間肉体の方は歩き続けていたと想像されることである。途中で休憩し座ったり横になったりしていないとの証言が欲しいところだが、残念ながらそれは無い。
 このケースのように、近代の例では本人は離脱する瞬間は意識がないのに、幽体の方は物体をいじくることが出来ている。この奇怪な一面は幽体離脱現象の複雑性をよく示しており、同時に離脱のプロセスには意識も記憶も関与していないことを物語っている。
 同じく自然発生的な例でも、ある人がどこそこに行きたいと思い、その場所で確かにその人の姿を見たというケースがあるが、これは〝テレパシー的幻影〟に過ぎない可能性も考えられる。