自殺ダメ



 [日本人の心のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》近藤千雄[著]より]


 世界の三大宗教を初めとして、他の全ての宗教に共通して言えることは、宗教的論理・道徳については独自の規範でそれなりに細かく説いていながら、実在としての死後の生活の概念が欠落しているか、ないしは非常に稀薄なことである。死後の概念はあっても実生活が説かれていないのである。
 これを別の角度から見れば、地上の現実界が実在界であって、死後に存続するのは通俗的に「霊魂」と呼んでいる曖昧なもので、それには活動的生活の概念はなく、いずれは消滅して行くものらしいのである。
 その一方で、キリスト教も仏教も「地獄・極楽」説を説く。いわば善と悪の二元論であるが、科学的知識がこれ程進み宇宙観が果てしなく広がっている時代に、そんな単純な理論で納得する人間は一人もいない筈である。少なくとも「考える」ということを知った人間なら、「足し算」と「引き算」だけの計算で済むかのような子供騙しの説では、とても納得出来る訳がない。
 キリスト教ではイエス・キリストへの信仰を告白すれば永遠の生命を授かると説くが、イエス自身はそんなことは言っていない。イエスと共に永遠に賛美歌を歌うなどという退屈この上ない天国説、炎で焼かれ続けるという、明らかに化学的法則に反する地獄説、そんな教義は西暦325年のニケーア会議で勝手にこしらえられたもので、所謂“でっち上げ”である。
 このニケーア会議での陰謀については拙著『霊的人類史は夜明けを迎える』(ハート出版)で詳しく紹介してあるので、感心のある方は参考にして頂きたい。
 仏教も、まともに考えたら、おかしなことだらけである。根本経典とされているものは釈尊の死後三百年から五百年の間に何度が行われた会議で纏められたものだそうであるが、どの経典も冒頭に「如是我聞」、即ち「私はこのように聞いています」とあるように、それが正確かどうかは分からないし、たとえ「正確」であっても「真実」であるとは限らない。
 しかもそれが中国語に翻訳されて日本に移入されたというのであるから、ますますもって危うさを感じずにはいられない。『神道論』の石村博士は、輸入された仏教の哲理は容易に理解されず、影響を及ぼし始めるのに半世紀は掛かった筈だと述べているが、その理解もあくまでも日本人的理解だった筈で、釈尊の教えを正確に理解したか否かは判断の限りではない。失礼ながら現代の仏教学者も僧侶も、その点に関する限り同列であろう。
 筆者の知る限り、歴史上の宗教家で死後の現実味のある生活を説いているのはイエスくらいのものであろう。「父の国には多くの家がある」とか「死後は後なる者が先になり、先なる者が後になることが多い」といった表現からそれが窺われる。
 「先なる者が後になることが多い」とは、この世で上流階級だった者や地位の高かった者が死後の世界でみすぼらしい状態に置かれていることが多いことを述べたもので、現代の啓示でもそのことに言及したものが多い。
 翻(ひるがえ)って《かんながら》の思想を見るに、「人は祖に基づき、祖は神に基づく」といった表現によって大雑把ながら他界者の実在を暗示していることは認めるが、そこに具体性が欠けている。特に地上生活と死後の生活との因果関係についての言及が全く見られないのは重大な欠陥と言わざるを得ない。
 スピリチュアリズムの霊界通信、私の言う「現代の啓示」によって明らかにされた死後の世界については八章で詳しく扱うが、死後もやはり地上と同じく主観と客観の生活が営まれており、そこでの幸不幸は地上時代の精神的並びに身体的行為がいかなる性質のものだったかによって決まるという。