自殺ダメ



 [日本人のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》]近藤千雄[著]より


 戦乱に明け暮れた二十世紀

 シルバーバーチの霊言に次のような一節がある。

 私達の影響力がどれほど広範囲に拡がっているかを皆さんにお見せ出来ないのが残念です。地上界と霊界とのこうした結び付きを邪魔している障壁を取り壊し、障害物を取り除き、その上でこうして知識をお届けすることが出来ております。この知識こそ今の地上界が必要としているものなのです。人類を霊的に、精神的に、そして身体的に自由にする、いたって単純な真理です。

 この一節を訳す時に私の脳裏に様々なことが浮かんだ。「知識」とは霊的真理のことで、総合的にはスピリチュアリズムの全てを指すと見てよいであろう。「障害物」には三種類のものが考えられる。一つは間違った神学や迷信。もう一つは死後なお地上時代の間違った信仰や生活から抜け切れない一種の地縛霊的存在で、そうした低級霊の意図的並びに無意識的な影響である。
 そして三つ目が、言うなれば「獅子身中の虫」、即ち霊的知識を広めるべきだと先頭切って活動しながら、その人の人間性そのものが反発を買って、かえって誤解を生む結果になっている、そういう障害物である。
 様々な意識レベルの人間が同一平面上で生活している地上界では、こうしたものは宿命ともいうべき「厄介なこと」であって、見方によっては「神の配剤」と言えるかも知れない。それらに比べるとシルバーバーチが「障壁」と呼んでいるものは異質のもので、霊界側が地球的規模でその除去に取り組んでいる、スピリチュアリズム本来の目的があることを最後に訴えたいと思う。
 これは原文ではbarriers(バリア)となっている。複数形になっているところから、シルバーバーチの念頭には様々な種類のものがあったことが推察される。その全てを挙げる訳にはいかないが、間違いなく言えることは人類が太古から積み重ねてきた怨念や憎悪が、丁度排気ガスが大気圏を覆うように地球を取り巻いていることである。
 これはオーエンの『ベールの彼方の生活』の第四巻で象徴的に描写されている。その一部を引用すると-

 ・・・・地球の方角へ眼をやると、様々な色彩が幾つも層を成して連なっています。それは私(通信者)が所属する界と地上界との間の階層を象徴する色彩で、これより下降すべく整列している軍勢の装束から放たれているのでした。
 その下方、丁度その軍勢の背後になる位置に、霧状のものが地球を取り巻いているのが見えました。その、どんよりとして分厚く、あたかも濃いゼリー状の物質を思わせるものが所々で渦を巻いている中を、赤と暗緑色の筋や舌状のものが纏わり付いている様は、邪悪の化身である蛇が身の毛もよだつ地獄の悪行に奔走している様を彷彿させ、見るからに不気味なものでした。(中略)
 我々のこれからの旅は、あの不気味な固まりと立ち向かい、しかもそれを通過しなければならないのです。目指す地球はその中にあるのです。何としてでも突き抜けて地球まで至らねばなりません。陰鬱極まる地球は今こそ我々の援助を必要としているのです。その不気味な光景を見つめている私の脳裏に次のような思いが浮かびました-人間はよくもあの恐ろしい濃霧の中にあって呼吸し、生きていられるものだ、と。

 この通信が届けられたのが1919年であるから、ヨーロッパを中心とする第一次世界大戦が終結した年で、それから二十年後に第二次大戦が同じくヨーロッパで勃発し、やがて日本も参戦して舞台が太平洋へと移り、四十五年に終戦を迎えている。
 第二次大戦の死者だけでも無慮四千万人である。これに第一次、日清、日露、朝鮮動乱、ベトナム戦争、そして中東の湾岸戦争の犠牲者を入れたらどれ程の数字になるであろうか。二十世紀はまさに戦乱の世紀だった。
 これに加えてアウシュビッツの惨劇やポルポト政権による大量虐殺、アフリカで見られた部族同士の大量虐殺などを計算に入れたら、地球の霊的大気の汚染度合いは想像を絶する。オーエンを通じて届けられた通信の描写は決して誇張ではないであろう。
 霊的大気が乱れるということは霊的波動が乱れるということであり、シルバーバーチも第二次大戦中の通信の中で、次々と交信の配線が切れていくのを嘆いている場面がある。配下の霊団の者から「もう無理です、止めましょう」という進言を受けたこともあるという。それを押し切って六十年間も続けたのだった。
 シルバーバーチは正面切って人間の煩悩を咎めることはしないが、訳している私には、とかく人間が霊の世界には金銭の病気の悩みがなくて楽であるかに想像する、その次元の低い思考に一本釘を刺しているのが読み取れる。
 要するに冒頭に引用した文にある「障壁」とは、オーエンの通信の中で「あたかも濃いゼリー状の物質を思わせるものが渦を巻いている中を、赤と暗緑色の筋や舌状のものが纏わり付いている」と表現されている、憎悪の感情で固められた障壁と思えばよい。スピリチュアリズムという名の地球浄化の大事業に携わる霊団は、それを取り壊すことから始めたということである。

 因果律は絶対に逃れられない

 私は1935年(昭和十年)の生まれであるから1945年の終戦時は十歳で、空襲を受けた体験の記憶はあっても実戦に出る年齢でなかったし、多分これからの余生にも戦争に駆り出される可能性はないであろう。
 従って戦場での心理がどういうものであるかは想像の域を出ないが、兄弟喧嘩でも本気になった時は激しい憎しみを覚えることから推察すれば、殺人兵器を手にしての戦場での憎悪がいかに激烈なものかは、おおよその察しはつく。
 そうした見方からすれば、人類史上かつてないほど戦乱の多かった二十世紀は、それまでに蓄積された数々の戦乱によって醸成された悪想念も加わって、外部から見れば「よくぞ人間はあの中で生きていられるものだ」と思えるような様相を呈していても不思議ではない。
 加賀武士の物語を本書に取り入れたのは、地上生活をいかに順調に生きようと、否、この世的な栄達が順調である程、ちょっとした挫折によって精神的混乱がいかに増幅するものか-端的に言えば、無念残念の地獄を自らこしらえてしまうことの典型であると見たからである。
 この武士は現代的な譬(たとえ)で言えば、健脚に自信のあるランナーがスタート直後に足首を捻挫してしまったようなものである。間違いなくトップになる実力はあった。それが思いがけないアクシデントで発揮出来なかった。
 本文でも述べたように、この武士はよほど霊格が高く、教養もあり、武芸百般に通じていたことであろう。今日でいう超エリートである。が、それはあくまでも「この世的」、つまり武家時代の日本の社会における通念としての教養であり素養であって、永遠不変の生命に関する真理には通じていなかった。その落差が、数百年にもわたって石碑一つの建立に拘り続ける程強烈な想念のバリアを築き上げてしまった。
 実は市次郎の前にも何代かにわたって当該家の者に憑依していたらしい。本人がそう自白しているのである。市次郎も危篤状態に陥ったが、先祖の中にはその為に死亡した者もいたという。更には、いっそのこと生まれ出て・・・という考えから胎児に憑依したこともあり、当然のことながらそうした子は障害を持って生まれている。
 あの古記録では一応「一件落着」となっているが、神の摂理による裁きは、あの後から始まるのである。たとえ《高峰大神》として祀られても、それは人間的慣習としての行事であって、それによって罪業が消されるものではない。もっとも、この西暦2003年の時点では既に禊(みそぎ)はすっかり終わっているかも知れないが・・・
 同じことが世界規模の戦争についても言えるであろう。先程数え上げた戦争という名の罪悪の報いも又、人類全体として必ず受けなければならない。果たせるかな前世紀も終わりに近付くにつれて、世界各地で異常気象による災害や不慮の事故や暴動が大規模に発生している。世紀末現象と呼ぶ人がいるが、世紀末だから起きているのではない。たまたま時期が世紀末にかかったというだけの偶然であって、その原因は霊的大気の汚染にある。それが人間の悪感情の集積であることは既に述べた。
 異常気象がなぜ人間の悪感情と関係があるのかという疑問をもたれる方がいるかも知れないが、精神的ないしは神経的に不健康な状態が続くと皮膚に異状が出るのと同じで、一個の生命体である地球上の不和は異常気象となって現れる。一種の警告と受け取るべきである。
 政界や官公庁における不正が次々と暴かれているのも、一種の自浄作用の現れであると私は見ている。週に一回は啞然とするような事実が報道されていて、あたかも“ドブ掃除”のような様相を呈してきた。一時的にはその“腐敗臭”に毒されそうになるが、これも同時代人として避けられない“禊(みそぎ)”である。
 自浄作用といえば、岩波書店の月刊誌『世界』(1998・5)が《侵略の証言》という特集記事(三回シリーズ)を掲載している。日本軍が太平洋戦争に突入する前に中国大陸で行った残虐行為についての、軍人・官吏・憲兵による懺悔を込めた証言集である。
 罪の償いは、この世にいる内か死んでからか、いずれは何らかの形で行なわねばならない。所謂因果律の働きで、この摂理だけは絶対に逃れられない。これをシルバーバーチは「神の請求書は必ず送られて来ます」と表現している。
 自分には関係ないと思われる方もいるかもしれないが、同時代に生まれ合わせたという事実は決して偶然ではない。他人事としてではなく一蓮托生として関心を持つべきであると思う。

 霊界もグローバル化が進んでいる

 私の師である間部詮敦は「スピリチュアリズムを知ったということは前売り券を買ったようなものです」とよく仰っていた。含蓄のある言葉で、私の筆一つで制約してしまわぬよう、敢えて断定的解釈は控えるが、心のゆとりを持って地上生活をエンジョイすることが出来ることを示唆しているのではなかろうか。
 日本に限らず、これまでの世界の人生思想ないしは宗教的人間観には、二極の対立思想が強過ぎたように思う。善と悪、天国と地獄、俗界と涅槃等々・・・それが、スピリチュアリズムの勃興によって、善でも悪でもない、天国でも地獄でもない世界が無限に広がっていることが明らかとなった。
 そういう世界を私は“ニュートラル”neutralと呼んでいる。中立の、無色の、不偏不党、といった意味である。ニュートラルな生き方をスピリチュアリズム的に表現をすれば「類魂」(グループソウル)の存在を念頭においた生き方とでも言えば良かろうか。類魂については第七章で詳しく解説してあるので熟読して頂きたい。これは死後の個性存続と並んで人類にとっての革命的啓示というべきもので、私はその正しい理解こそが人類同胞・四海兄弟の真の理解に繋がるものと信じている。地上人類が霊的真理に目覚めることが霊界のグローバル化、言い換えれば各国の霊的鎖国状態が解かれる為の必須の条件なのである。
 間部氏が「日本は地球の心臓部に位置している」と述べたことは本文で述べた。心臓が血液を浄化していくように、地球の霊的潮流を浄化していく-エドワーズがいみじくも述べているように“スピリチュアライズ”する-使命が日本民族に課されていることを、間部氏は直観されたのであろう。これからの日本はそうした役割を担わされる事態に遭遇することが多くなることであろう。
 これは決してかつての国家神道的な、日本のみが神国であると誇る偏狭な国粋主義から出たものではない。慶応大学出身の霊的治療家でカウンセラーだった間部氏は浅野氏のもとでスピリチュアリズムの神髄に目覚め、浅野氏亡き後英米の心霊誌を通して世界のスピリチュアリズムの動向に眼を向けながら戦前・戦中・戦後を生きて来られた。そこへ私という若者が現れた。もしも間部氏との出会いがなかったならば、間違いなく私はスピリチュアリズムとは関係のない、純粋の英文学の道へと進んでいたことであろう。
 この一連の流れには明らかに「意図」が読み取れる。本書はその集大成といってよいかも知れない。最後にハリー・エドワーズを紹介したのも、心霊治療そのものよりも、スピリチュアリズムについて正しく理解して頂く為である。
 どうやらスピリチュアリズムが本格的に理解されるのは新ミレニアムの間では覚束ないかもしれない。全ては過去の間違った人類の所業がどこまで清算されるかに掛かっている。本格的な《かんながら的啓示》が届けられるのは、それからのことであろう。本書がその時期の到来を少しでも促進する上で役立てば幸いである。
 最後に付言しておきたいことがある。自分で書いたものを自分で批判するのも妙な話であるが、「かんながら」と「スピリチュアリズム」をテーマとしながら、両者を並べて説いたに過ぎない嫌いがあることである。ズバリ両者を融合させたのは、八章の「人間の霊的構成と死後の世界」位であろう。が、実はこれがもっとも大事な点であり、全ての基盤となることである。
 神道系の修業を散々積んだ筆者の恩師・間部詮敦氏が「浅野先生の四魂説を知って、それまでに読んだ指導書を全部捨てた」と仰ったが、そこに叡智の閃きがあったことであろう。
 その浅野和三郎氏は「スピリチュアリズムは人生の指導原理である」と仰っているが、間部先生はまさにスピリチュアリズムから学ばれたのである。筆者も言及したいと思いながら、時期尚早と思い留まったことが随所にある。
 神道に限らない。仏教にしても密教にしてもキリスト教にしても、或いはバガバッドギータにしても『死者の書』にしても、その他、およそ霊的な要素を秘めたものはスピリチュアリズムの原理に照らして初めてその真意が理解出来る。
 本書で日本古来の精神文化である「かんながら」を取り上げたのは、日本人の心の奥には自分で自覚している以上に、かんながら的なものが潜んでいるからである。

                                近藤千雄  2005年12月
       
       
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