自殺ダメ

 [日本人の心のふるさと《かんながら》近代の霊魂学《スピリチュアリズム》]近藤千雄著より

112


 浅野和三郎氏は筆者の師匠の師匠に当たるが、年代的な隔たりの為に直接の面識はない。従ってその人となりについては私の師匠の間部詮敦氏と、米寿まで生きられた浅野多慶子夫人からお聞きしたことから想像するのみであるが、その業績は遺されているものから直接的に知ることが出来る。一言にして尽くせば、疾風怒濤の中を生き抜いた《知的巨人》と呼ぶに相応しい人物と評しても過言ではないであろう。
 浅野氏は帝国大学(現・東京大学)英文科の出身で、卒業後は新進気鋭の英文学者として早くから知識層にその名が響き渡っていた。美文調の名訳には他の追随を許さない浅野氏ならではの特徴があり、旧海軍の幹部養成学校の教職も兼ねていて、その前途は洋々たるものだった。
 その浅野氏が急転直下、霊的なことにのめり込んで行ったのは、三男の病気がきっかけだった。どの名医がどう処方しても治らない発熱性の病気が、女性祈祷師の予言通りに全治したことで、浅野氏はそれまで想像もしなかった世界があることに気付き、その祈祷師のもとを足繁く訪れて未知の世界を覗き見し始める。
 そこから運命の歯車が反転して当時の新興宗教の一つである大本教に入信し、やがてその幹部となる。大正五年(1916)のことで、そのニュースは当時の知識階層に衝撃を与えると同時に、多くの知識人や軍人が浅野氏を慕って続々と入信して、一種の社会現象の様相を呈した程だった。
 が、実は浅野氏が入信を決意したのは、大本教の根本経典である《おふでさき》の内容を分析・研究したいという願望が抗し難い程のものだったからで、単なるご利益信心とは無縁のものだった。つまり教祖・出口ナオによる自動書記通信の内容を知りたいとの知的好奇心に突き動かされたと言ってよいであろう。
 もとより大本教側には浅野氏を絶好の宣伝材料として利用しようという魂胆があったことは明らかで、いつしか「大本の浅野か浅野の大本か」とまで言われる程の中心的存在となって行く。やがてそれがナオの娘婿・出口王仁三郎の嫉妬を買い、色々と確執が生じたようであるが、そうこうしている中にナオの《おふでさき》の中に当時の天皇である明治大帝を揶揄する文言があることに宮憲が気付く。日清・日露の近代戦争に勝利して大いに意気揚がり、軍国主義への道をまっしぐらに突き進んでいた時だけに、穏便に見過ごしてくれる筈はなかった。
 ちなみに浅野氏は入信後間もなく、ナオを通して働きかけている霊団が大和朝廷によって併合された出雲の豪族達であることを見抜いていた。が、ナオの質素ながら神々しいばかりの美しさと、人間性には問題があっても霊的能力には見るべきものがあると王仁三郎の価値を認めていた浅野氏は、まだ大本教から学ぶべきものがあるとの判断から直ぐには脱会せず、当時欧米を席巻していたスピリチュアリズムの文献を取り寄せて最先端の情報を吸収しながら、大本教信者としての活動を続けていた。
 しかし、大正十年、事実上の幹部だった浅野氏は王仁三郎と共に《不敬罪》のかどで逮捕される。拘置・取調べは126日に及び、裁判も一審、二審と続くが、大正天皇の崩御による恩赦で《免訴》となる。昭和二年(1927)のことである。
 こうした経過だけを見てくると、浅野氏も随分余計な回り道をしたような印象を受ける向きもいるかも知れないが、ほぼ半世紀をオーソドックスなスピリチュアリズムに携わってきた筆者から見ると、浅野氏が辿った道に何一つ無駄はなかったことが分かる。
 三男の病気も女性祈祷師との出会いも背後霊団の仕組んだ演出であり、ナオと王仁三郎との出会いは浅野氏の生得の資質である審神者(さにわ)的能力の開発に大きく寄与し、拘置所での126日間は霊視能力と洞察力の練磨の絶好のチャンスとなった。
 筆者は東京での四年間の大学時代は一人で、結婚後は家族四人で、横浜の鶴見にご在住の浅野多慶子夫人をお訪ねして、浅野氏にまつわるエピソードを《妻》としての立場から語られるのを聞いている。浅野氏は筆者の誕生の二年後に他界しておられるので、お訪ねした時はいずれもほぼ筆者の年齢の数だけ年数が経っていた計算になる。
 第三者の外観的な見方とは違って、生涯を共にした妻の立場からの思い出には切実な感慨がこもっていた。例えば126日に及ぶ拘留期間中、夫人は何度か差し入れに訪れている。その時の屈辱的な思いは察するに余りあるが、その折に毎回取り替えたのが足袋で、甲のところが擦り切れていたというのである。
 111
 「正座して鎮魂帰神に一心不乱になっていたのでしょうねぇ」
 この夫人の推察は正鵠(せいこく)を射ていると見てよいであろう。あの拘置期間は浅野氏にとっては人生最大の窮地(ピンチ)で、それだけに一心不乱に背後霊団との感応道交を求めていたことであろう。その至誠に応えてインスピレーションがふんだんに流入していた。
 そう筆者が断言するにはそれなりの根拠がある。保釈後まだ裁判の係争中であるにも拘わらず、大正十一年十二月に《心霊科学研究会》の発足へ向けての集会を開催しているのである。更に注目すべきことは、昭和三年発行の浅野氏のスピリチュアリズム関係の第一作『心霊講座』の序文でこう述べていることである。(一部読み易く改めた)

 最近七、八年間に東西両洋にまたがって続出した無数の心霊事実の中から一番正確味に富み、又一番有意義と思われるものを選り出して適宜に分類し、そして出来るだけ公平な態度でそれらの生きた事実が何を教えているかを詮索・検討してみたいというのが、私の執筆の目的です。
 私としてはこれでも十数年来扱ってきた問題ですから、最初多少の自信を持って仕事に掛かりましたが、イザ筆を取ってみると案外私の平生の準備不足が分かりまして、新たに参考書類を集めたり新たな調査のやり直しをしたり、ついに丸々二年間この仕事に捧げてしまいました。私が本書の最後を書き上げたのは本年の一月でしたが、その時はヤレヤレ重荷を下ろした、という気がしました。(中略)
 私は本年九月のロンドンで開かれる世界スピリチュアリスト大会に臨むべく、目下その準備に忙殺されておりますが、こうした際にたまたま本書が出ることになったのは甚だ意義深いことと存じます。(後略)

 この時点で「十数年来扱ってきた」というのであるから、「大本の浅野か浅野の大本か」と謳われた絶頂期には、浅野氏自身は既に大本教に見切りをつけ、欧米のスピリチュアリズムへと関心を向けていたことが分かる。ここから天才的英語力が真価を発揮し始めるのである。
 今『心霊講座』に目を通してみると、あの時代によくぞここまで欧米のスピリチュアリズムの動向を把握していたものだと感嘆を禁じ得ない程、押さえるべきところはキチンと押さえていて、少なくとも現象面に関する限りは主観・客観共に遺漏はない。
 ただ、惜しむらくは肝心の高級界からのメッセージ、所謂霊界通信があまりに断片的過ぎる嫌いがある。この傾向は世界スピリチュアリスト大会からの帰途、各種の霊界通信を購入して持ち帰ってからも変わらず、ワードの『死後の世界』(潮文社)を唯一の例外として、他は全て部分訳ないしは抄訳で終わっている。翻訳を任せられる程英語の達者な人物が身近にいなかった為に、そこまで手が回らなかったということであろう。