自殺ダメ




 四界説

 人間の自我の本体が[霊]であることは既に述べた。その霊的存在が地球という物的世界で生活を営む為の媒体として授かるのが物的身体、俗に言う肉体である。これまでの人間科学は、肉体的欲望はもとより、人間の人間たる所以である精神的活動も全てその肉体、具体的に言えば[脳]の機能の反映であるというのが基本的概念であった。それがスピリチュアリズムによって完全に覆され、肉体以外に三つの媒体があって、霊がそれらを駆使して生活している-脳はそのネットワークに過ぎないことが判明した。
 四魂説というのがそれであるが、論理的な帰結として、肉体の活動の場として物質界が存在するように、眼に見えない他の三つの身体にもそれぞれの活動の場がある筈だということになる。そしてそれを明確に説いた霊界通信が次々と入手されている。ここでは二つのイラスト(図③及び④)を紹介しておく。

442
図③ 地球を取り巻く3つの界層
441
 図④コナン・ドイルが死後まとめて送ってきた死後の界層のイラスト



 ■幽界
 物的身体に宿って生活する場が物質界であるのと同じ原理で、幽質の身体に宿って生活する場は幽界となる。身体が幽質の半物質体で構成されているように、環境も同じ波動の半物質体で構成されていて、地上の人間が地球環境を実感をもって認識しているように、幽界で生活する者はその環境を実感をもって認識している。
 決して地上の人間が想像しがちなように実態のない、フワフワとして取り止めもない世界ではないことを知って頂きたい。中には死んだことに気が付かない者がいる程、地上生活と同じ主観と客観の生活が営まれているのである。
 そのことが中々信じられないのは、実は今生活している地上界を構成している「物質」そのものについての理解が出来ていないからに過ぎない。最新の物理学が教えるところによれば、我々が実感があるかに感じている物的環境は、究極的には「波動」で構成されているという。これはもはや常識といってよいほど知られていることであるが、ではなぜ実体があるかに感じられるのか。
 それは環境と身体とが同じ波動で出来上がっていて、五感によってその存在が認識出来る仕組みになっているからである。いわば「錯覚」である。般若心経にいう「色即是空、空即是色」とはこのことであろう。ただ、感識出来る範囲にも限界があり、その範囲外の波動は感識出来ないから、幽界や霊界は存在しないのと同じことになる。
 さて、幽体は肉体の成長と共に大きくなり、肉体の細胞の一つ一つ、器官の一つ一つに浸透している。幽体は先に説明した通り基本的には感情の媒体であるから、感情の持ち方が肉体に反応し、その逆、即ち健康状態が幽体に影響することにもなる。これからますます盛んになると予想される臓器移植の問題も、いずれはこの事実に直面することになると推察されるが、ここでは深入りしない。
 死によって幽体が肉体から抜け出ると、丁度地上に誕生した時の、あの肉の塊のような身体が二、三年で一人前の体型を整えて地上生活が営めるようになるのと同じで、幽体も徐々に幽界の環境に応じた体型と機能を整えて、幽界生活を営むことが出来るようになる。
 地上時代との一番大きな違いは、肉体の障害が全て消えてしまうことで、眼が見えなかった人は見えるようになり、耳が聞こえなかった人は聞こえるようになり、手足の不自由だった人は自由になり、知能に障害のあった人は正常に復する。そうした障害と不自由さがカルマと呼ばれている因果律によるものだっただけに、そのカルマの試練に耐え抜いた今、それが様々な幸せとなって報われる。
 その一方では、その正反対の報いを受ける者もいるであろう。他人に精神的苦痛を与えた人、殺人や障害の罪を犯した人は言うに及ばず、いけないことと知りつつ間違った生き方を続けた人、学者であれば面子や名声をかばって真実を真実として認めなかった人、宗教家であれば、間違いであることを知りつつ、もっともらしい教説を説いてきた人、こうした人々はその過ちに応じた報いを精神的苦痛の形で受けることになるという。
 こうした、いわば[地上生活の清算]は、先に掲げた死後の階層の図③にある[中間境]において行なわれるのが普通である。言ってみれば[因果律による審判]が行なわれるわけであるが、皆が皆、素直に更生するわけではないから、図③にある通り三つの階層に収まることになる。
 しかし、ここはまだ虚相の世界で、死後の世界ではあっても実相の世界ではない。ここが肝心なところで、死ねば地獄か極楽へ行くとか、無に帰するというものではない。当分は地上時代そのままの意識と姿で生活を続ける。驚くことに、自分が死んだことすら気付かず、地上時代と同じ感覚のまま生活している者がいる程である。信じられないことであるが、それほど幽体と幽界とがうまくマッチしているということであろう。

 ■霊界
 そうした主観と客観の生活は霊界へ進んでからも同じである。違うのは人間味や情緒的感性から脱け出て、純粋理性によって霊的実在を認識出来るようになることであるが、その理解の程度も大きく分けて三段階があるという。
 第一段階は、知的理解は出来ても神性の開発が未熟な為に実在の表面ないしは側面のみの理解の範囲に留まり、それでいて自分では全てを悟ったつもりでいる。
 図③を見る際に注意しなければならないのは、死後の世界へ行ったからといって上層界の存在に気付くとは限らないことで、地上の人間が死後の世界の存在に気付かないどころか、信ずることすら出来ないのが普通であるのと同じである。この第一段階でも神界の存在に気付かずに、全てを知り尽くしたつもりでいる。究極の実在界に辿り着いたと思い、自己満足に耽る。地上でよく見かける傲慢不遜な知識人の背後にはそうした霊が控えていると思ってよい。
 これが第二段階になると神性も発達して直覚が働き、実在界がまだまだ無限に広がっていることを悟るようになる。地球圏に留まらず他の天体の霊界へ赴くなどして研鑽を重ね、神性の開発に努める。
 この段階では霊体が一段と稀薄になり、人間的形態を纏うことがなくなる。そしていよいよ神界への向上を目指すのであるが、ここで何よりも要求されるのは霊力である。霊格が高いということは必ずしも霊力が強いということにはならない。そのパワーをつける為に敢えて下層界へ赴く者もいる。地上界もその一つで、政庁の許しを得て再生する者もいる。地上界がトレーニングセンターと呼ばれる所以である。
 なおこの段階から[類魂]の存在を知り、活動範囲が飛躍的に広がるのであるが、これについては七章で解説した。その観点から改めてお読みになれば、また新たな理解が得られるものと信じる。

 ■神界
 物的身体に宿った人間が神界のことを語るのは、動物が人間社会のことを語るのにも似ていよう。言語ではまず不可能である。従って、抽象的な叙述しか出来ないことを了承願いたい。
 幽界に幽界独自の政庁があり、霊界に霊界独自の政庁があるように、神界には所謂「神庁」が存在する。地球神の采配の下、太陽系の他の天体との連絡を取りつつ、地球の生成発展の為の指揮に当たる。
 霊界通信によれば、ナザレのイエスなる人物はこの神界の高級霊、西洋でいう天使の一柱で、地上界の実情を身をもって体験する為に誕生したという。サイキックとスピリチュアルな双方の能力を自在に使いこなしたイエスのことであるから、あの磔刑に至る経緯の中で、逮捕に来たローマの軍隊から身をくらます位のことは、その気になれば簡単に出来た筈である。
 が、イエスにとっては、そうした一身上のことはどうでもよかった。地上降誕の目的は普遍的愛を説くことであり、永遠の生命を説くことであり、そしてスピリチュアリズムという名の地球浄化の大事業に備えて物的体験を積むことにあった。
 マイヤースの通信の一つに次のような一節がある。

 その最後の局面(はりつけ)は、外面だけを見ると、あれ程の奇跡を起こした人物らしさが見られないと言えるかもしれない。つまり、あっさりと観念して縛についたという感じである。しかし、それは皮相な見方というものである。叡智の人とは永遠の生命を悟った人のことであり、人類の過去・現在・未来を通して考察出来る人のことである。いつの時代でも賢人・哲人と呼ばれている人は、叡智の中で淡々とした生活を送りながら、日頃は目立たず、人生のクライマックス、ここという最も重大な時、或いは最晩年において、生命力に溢れた壮絶な生き方の中でその叡智を発揮するものなのである。
 浅はかな論者は、あれほど気高い生き方を率先垂範したイエスが、あの最後の局面において縛につき悲劇的な死を招くに至ったのは自分のことを「神の子」と広言したからで、狂気の沙汰だったと非難する。
 しかし、いつの時代にも愚か者は賢者を愚か者と呼ぶものである。他人の行為が気違い沙汰にしか見えないところにこそ当人の愚かさ、視野の狭さを露呈しているのである。あの時のイエスの行動の背後には、普通一般の人間には理解しがたい叡智が働いていた。イエスは自分の神性を広言し、そのことで十字架にかけられることによって初めて、自分の地上への降誕の意味と、語り聞かせた真理の正しさを理解させることになると悟ったのだった。 (『個人的存在の彼方』)