自殺ダメ




 これは三月二十八日午後九時半から現れた陸軍士官の霊界通信で、いよいよこの通信の大眼目たる地獄の第三部、憎悪、残忍、高慢の罪を犯した者の当然入るべき境涯の第一印象をば、例の端的な筆法で報告してあります。ある程度まで時空の支配を受くる幽界の状況とは俄(にわ)かに勝手が違いますからそのおつもりで玩味さるることが必要であります。

 前回諸君にお分れした時に吾輩がとうとう地獄に墜ちかけたことを申し上げておきましたが、大体地獄という所は地上界とは多くの点に於いて相違しております-最初吾輩の体は暗い、冷たい、恐ろしい無限の空間を通じてドンドン墜落して行く・・・。最後に何やら地面らしいものにゴツンと衝き当たった。ふと気が付いて見ると其処には道路らしいものがある。兎も角も吾輩はそれに這い上がって、コツコツ進んで行ったが、ツルツル滑って間断なく汚い溝(ドブ)の中に嵌(はま)る。嵌っては這い上がる。這い上がっては又嵌る。四辺は真っ暗闇で何が何やらさっぱり判らない。が、吾輩の体は不思議な引力のようなものに引き摺られ、ある方向を指して無茶苦茶に前進を続ける-最後に吾輩は荒涼たる石ころだらけの野原に出た。
 依然として闇の中をば前へ前へと引き摺られる。その間何回躓き、何回倒れたかはとても数え切れない。こんな時には誰でもいいから道連れの一人もあってくれればと頻(しき)りに人間が恋しくてしようがなかった。そうする中に次第次第に眼が闇に慣れて視力が少しずつ回復して来た。行く手を眺めると何やら朦朧と大きな凝塊が見える。暫くするとそれはある巨大なる市街の城壁で見渡す限り・・・。と言って余り遠方までは見えないが、兎に角何処までもズーッと延長した城壁であることが判った。幸い向こうに入り口らしい所がある。近付いて見ると、それは昔のローマの城門めいたものであるので、吾輩構わずその門を潜った。が、その瞬間に気味の悪い叫び声が起こり、同時に二人の醜悪なる面構えの門番らしい奴が、矢庭に吾輩に飛び掛って来た。
 ドーせ地獄で出くわす奴なら、片っ端から敵と思えば間違いはあるまいと気が付いたので、吾輩の方でも遠慮はしない。忽ちそちらに振り向いて、生命限り・・・。いや生命は最初から持ち合わせがないから、そう言うのも可笑しいが、兎に角一生懸命になって、先方と格闘しようと決心した。ところが妙なもので、吾輩がその決心を固めると同時に二人の醜悪な化け物は俄然として逃げ出した。これがそもそも吾輩が地獄に就きての最初の教訓に接した端緒であります。地獄には規則も何もない。ただ強い者が弱い者を虐める。そしてその強さは腕力の強さではなくて意思の強さと智恵の強さであるのです。
 吾輩は暫くの間何らの妨害にも接せず、先へ先へと進みましたが、モーその時には濃霧を通して種々の建物を認め得るようになりました。段々見ている中にこの市街には何処やら見覚えがあることに気が付いた-外でもない、この市街は古代のローマなのであります。ローマではあるが、しかしローマ以上である。かつてローマに建設されて今は滅びた建物が出現しているばかりでなく、他の都会の建物までがそこへらに出現している。無論それ等の建物は皆残忍な行為と関係のあるものばかりで、それ等の邪気が凝集してこの地獄の大首府が建設されているのであります。同じくローマの建物でも残忍性のない建物はここには現れないで、それぞれ別の境涯に出現している。全て地上に建設さるる一切の都市又は建物の運命は皆こうしたものなのであります。
 憎悪性、残忍性の勝っている都市としてはローマの外にヴェニスだのミランだのが数えられる。そして呪われた霊魂達は皆類を以ってそれぞれの都市に吸引される。無論地獄の都市は独り憎悪や残忍の都市のみには限らない。邪淫の都市だの物質欲の都市だのと色々の所が存在しパリやロンドンは主に邪淫の部に出現している。但しこれはホンの大体論で、ロンドンの如きもそれぞれの時代、それぞれの性質に応じて、局部局部が地獄の各方面に散在していることは言うまでもない。