自殺ダメ




 やがて我々は一大劇場の正面に出た。途中かなりの距離を歩いて来たが、その辺で見かけるどの建物も大抵皆近代式のものばかり、なかんずく劇場などときてはまるきり近頃のものだった。そのくせ汚れ切っていて、手入れなどはさっぱり出来てはしなかった。
 が、見物人の多いことと云ったら全く凄まじい程で、押すな押すなの大盛況-我々は暫く群衆と一緒になって、門の内部まで入って見たが、其処は殆ど修羅の巷で、大概の観客はお互いに喧嘩をしている。ヤレ押したとか、押されたとか。ヤレ滑ったとか転んだとか。めいめい何とか勝手な文句を並べて騒いでいる。殊に切符売り場の騒動ときては尚更酷いもので売り手と買い手とがひっきりなしに罵り合っている。
 いつまでもこんな騒動の渦中に巻き込まれていたのではとてもやり切れないので、吾輩は満腔(まんこう)の念力を込めて、四辺の群衆の抗議などには一切頓着なしに、家来の手を引っ張りながら、グイと真一文字に切符売り場へと突進した。家来の奴も吾輩の保護の下に大威張りで、道すがら幾人かを突き飛ばし、殊に一人の婦人の頭髪をひッ掴んで地面に投げ倒したりした。しかし鬼のような群衆は別にその女を可哀相とも思わず、倒れている体の上をめいめい足で踏み躙(にじ)った。
 それから吾輩は家来と共に直ちに観覧席に突入して行ったが、ここでも又観客の大部分が罵り合ったり、叩き合ったり、乱痴気騒ぎ-自分達の直ぐ隣席の男女なども決して御多分に洩れず大立ち回りの最中であった。これが裏店社会の出身というのなら聞こえているが、この二人は元は確かに上流社会の者であったらしく、身に付けている衣服などは、汚れて裂けてはいるものの中々金のかかった贅沢品であった。それでいて大びらに喧嘩をやらかすのだから全く以って世話はない。そのうち男の方が女よりも強烈な意思の所有者であったらしく、とうとう女を椅子と椅子との中間に叩き伏せてしまった。そして自分の椅子をわざわざ引き摺って来て、女の体を足の踏み台にして、ドッカとそれに座り込み、女が起き上がろうとすると、上からドシンドシンと靴で踏みつけた。
 やがて彼は自分達を認めると、手真似で前を通れと知らせ、且つこう付け加えた-
 「構いませんから、上を踏んで行ってください。こんな餓鬼は敷物代用にしてやると、いくらか功徳になります」
 そう言ってゴツンと靴で女の顎の辺を強く蹴たぐったのであった。
 我々は言われるままに女の体の上を踏んで、内側の空席に赴いたが、その体は人間同様血もあれば肉もありそうな踏み心地で、しかも女は生きている時と同様に悶えながら泣き叫ぶのであった。無論女の方では生きている時にこんな目に遭わされている場合と全く同じな苦痛を感ずることには変わりはないのであるが、ただ足で踏まれるから痛いというよりも、足で踏まうとする意思の為に痛いのであった。
 我々の次の座席には二人の婦人が座っていた。昔はこれでも綺麗な女であったのかも知れないが、何せ、彼等の面上に漲る悪魔式な残忍性の為に今では醜悪極まる鬼女と化していた。吾輩は感心して、二人の顔をジロジロ見比べていると、自分に近い方のが-後で聞くとそれはローズというのであったが、吾輩に向かって済ましてこんなことを言った-
 「ちょいとあんたは私の顔ばかり見ていらっしゃるじゃないの・・・。そんなに私がお気に召して?」
 「フン」と吾輩は呆れ返って叫んだ。「お前のような者でもいつか綺麗なことがあったのかも知れないが、今では随分憎らしい面つきをしているネ-イヤしかし地獄へ来て余り贅沢も言われまい。まァ我慢してやるから大人しく俺の言うことを聞け!ついでにそっちの女も一緒に来ないか。両方とも俺の妾にしてやる・・・・」
 「まァ随分勝手だわネ、この人は・・・。他人に相談もしないでさ!誰があんたのような者と一緒になってたまるものかね、馬鹿馬鹿しい・・・」
 吾輩はイキナリ彼女の両手を鷲掴みにした。
 「これ、すべた!顔を地面に擦り付けて謝れ!」
 一瞬の間彼女は抵抗しようとしたが、勿論それは出来ない相談で、忽ち呻きながら吾輩の足下に泣き崩れ、顔を地面に擦り付けたのであった。
 「これで懲りたら、」と吾輩が言った。「元の席に戻っていい。しかし今日から俺の奴隷になるのだぞ!」
 続いて吾輩は他の一人に呼びかけた-
 「きさまの名前は何と言うか?」
 「ヴァイオレットでございます」
 「鬼みたいな奴のくせに、イヤに可愛らしい名前をくっつけていやがるナ。兎に角俺の方が鬼として一枚役者が上だ。愚図愚図言わずに、早く降参する方がきさまの幸せだろう。ローズ同様地面に顔を擦り付けて謝れ!」
 「は・・・・・はい」
 吾輩の手並みが判ったとみえてこいつは不平一つ言わずに吾輩の命令を遵奉(じゅんぽう)した。