自殺ダメ




 暫く下らぬことを喋り合っている中に漸く芝居の幕が開いた。芝居の筋が発展するにつれて、観客の喧嘩口論が次第に鎮まって行った。
 吾輩はここに地獄の芝居の筋書きを細かに紹介しようとは思わない。ざっと掻い摘んで言うと、ありとあらゆる種類の罪悪やら痴情やらが事細やかに我々の眼前に演出された後で、とど残忍極まる拷問の場面が開けるという趣向なのである。
 すると、それまで大人しく見物していた吾輩の家来が、この時急に声を潜めて言った-
 「御主人、ここえらで早く逃げ出した方が得策でございます。この芝居の終わりになると、拷問係がきッと観客を舞台に引っ張り出して、酷い目に遭わせますから・・・」
 そう言ったか言わない中に、舞台の拷問係が一歩前に進み出でて我輩の家来を指差しながら叫んだ-
 「コラッ奴!ここへ出い!」
 家来は満面に恐怖の色を浮かべてガタガタ震えながら立ち上がったが、我にもあらず座席を離れ、舞台の方へと引き摺られ始めた。
 吾輩はこれを見て大いに癪に障った。いかに虫けら同然の者でも家来は矢張り家来に相違ない。それを断りなしに引っ張り出されては主人公の面目にかかわる。吾輩は猛然として席を蹴って立ち上がった。
 「ヤイ!」と吾輩は舞台に向かって叫んだ。「こいつは吾輩の家来ではないか!ふざけた真似をしやがると承知しないぞ!」
 期せずして興奮の低い呻きが全劇場に響き渡り、観客一同固唾を呑んだ。
 拷問係ははッたとばかり吾輩を睨み付けた。
 「こらッ新参者!新参者でもなければそんな口幅ったいことは言わない筈じゃ。イヤ貴様のような奴にはそろそろ地獄の苦い懲戒を嘗めさせる必要がある。さッさとこの舞台へ出掛けて来て身共と尋常の勝負を致せ!」
 「何をぬかしやがる!勝負をするならこっちへ来い!」
 双方掛け合いの台詞が宜しくあって、忽ち猛烈なる意思と意思との戦端が我々の間に開始された。吾輩の長所は意思が飽くまで強固で、負けじ魂が突っ張っていることである。そればかりが吾輩の唯一の武器である。舞台から放射される磁力は実に強大を極めたが、吾輩は首尾よくそれに抵抗したばかりか、アベコベに敵を自分の手元に引き寄せにかかった。やや暫くの間勝負は五分五分の姿であったが、俄かに観客の間からドッと喝采が起こった。吾輩の敵が一歩ヨロヨロとこちらへよろめいたのである。しかし敵もさるもの、次の瞬間に再び後方に跳び退ると同時に、今度は吾輩の足元が危なくなった。吾輩の体は覚えず五、六寸前方へ弾き出された。観客は又もやドッと囃(はや)し立てる・・・。一時はヒヤリとさせられたが、即座に陣容を立て直し、一世一代の力量を絞ってグッと睨み詰めると、とうとう敵の隊形が再び崩れ出した。
 「エーッ!」
 一つ気合をかけるごとに敵の体はズルリズルリと舞台の端まで引き摺られて来た。其処で先方はモ一度死に者狂いの抵抗を試みたが、最後に敵は物凄い一声の悲鳴を挙げると共に、舞台下の囃子場(はやしば)の中に落ち込んだ。囃子連中はびっくりして四方へ散乱する。同時に歓呼喝采の声が観客の間からドッと破裂する。
 それから先はいよいよこっちのもので、敵は起き上がって、一歩一歩に吾輩の座席を指して、器械人形宜しくの態で一直線に這い寄って来る。
 意気地の無いこと夥(おびただ)しいが、それでも観客は気味を悪がって右に避け左に逃げる。
 とうとう敵は吾輩の面前に来て跪いた。
 暫くして吾輩が言った-
 「舞台に戻って宜しい。吾輩も舞台に出るのだ」
 もうこうなっては相手は至極大人しいもので、すごすご舞台へ引き上げると、吾輩も直ぐその後から身軽に舞台へ跳び上がった。
 「こいつを拷問にかけるのだ!」
 吾輩は彼の配下の獄卒共に向かってそう号令をかけた。で、獄卒共はせうことなしに今までの親分に向かって極度の拷問を施すことになったのであるが、イヤ観客の嬉しがり様は一通りや二通りのことでなく、手を叩く、足踏みをする、怒鳴る、口笛を吹く。流石の大劇場も潰れるかと疑わるるばかりであった。
 散々虐め抜いた後で吾輩が舞台から降りかけると、忽ち観客の間から大きな声で叫ぶ者があった-
 「君は皇帝に就くべしだ!大至急現在の暴君に反旗を翻すがいい。我々大いに力を添える!」
 これを聞いて吾輩もちょっと悪い気持ちはしなかったが、しかしあの強烈な意思の所有者と即座に戦端を開くということには躊躇せざるを得なかった。何しろ吾輩はまだ地獄へ来たばかりでさっぱりこの事情が判らないから、うっかりした真似は出来ないと考えたのであったが、同時に戦端開始はただ時期の問題であることを痛感せずにおられなかった。どうせ今日劇場で起こったことがいつまでも皇帝の耳に入らずにいる筈がない。耳に入るが最後、あんな抜け目のない人物が自家防衛策を講ぜずにぼんやりしている筈がない。
 そこで吾輩が叫んだ-
 「まァお待ちなさい。吾輩には地獄の主権者になろうという野心は毛頭無い。先方から攻勢を取らない限り、吾輩は飽くまで陛下の忠良なる臣民である」
 そう言うとあちこちからクスクス嘲り笑う声が聞こえ、中には無遠慮に囁く奴があった-
 「あいつ臆病だ!恐がっていやがる」
 「黙れ!けだもの」と吾輩は叫んだ。「もう一度批評がましいことを吐くが最後、貴様達の想像し得ない程の拷問にかけてやるぞ!」
 「馬鹿を言え!」と見物席の一人が喚いた。
 「俺達には皇帝がついていらァ。貴様達の手に負えるかッ!」
 その瞬間に吾輩はそいつを舞台に引っ張り出して、獄卒共に命じて生きながら体の皮を剥がせた。
-イヤ皮を剥ぐなどと言えばいかにも物質くさい感じがしましょうが、外に適当な文句が無いから困るのです。観客の眼には皮を剥ぐように見え、当人も皮を剥がれるように感ずるのです。無論霊界の者に肉体は無いに決まっていますが、有っても無くても結果は同一なのです。
 思う存分やるだけの仕事をやった後で吾輩は二人の婦人と家来とを引具して劇場を出た。
 「何処かに手頃の家屋はあるまいかナ?」とやがて吾輩は家来に訊ねた。
 「さァ無いこともございません。とりあえずそこの家屋はいかがでございましょう?あれには有名なイタリアの人殺しが住んで居ります。この方が古風なローマ式の別荘よりも却って便利かも知れません」
 「ふむ、これでよかろう」
 我々は早速玄関の扉を叩くと、一人の下僕が現れて吾輩に打ってかかって来たが、そんな者は見る間に地面に投げ飛ばした。
 「こいつの顔を踏み躙(にじ)ってやれ!」
 吾輩が号令をかけるとローズは大喜びでその通りをやった。それから大理石の汚れた階段をかけ上って大広間に入ってみると、そこには多数の婦女共に取り巻かれて主人が座っていた。吾輩はイキナリ跳びかかって、そいつを窓から放り出し、家も什器も婦女も下僕もそっくりそのまま巻き上げて自分の所有にしてやった。
 先ず今晩の話はこれ位にして置きましょうかナ・・・・。