自殺ダメ




 1914年6月8日の夜陸軍士官の口から漏れた地獄の第三境の体験物語ですが、学問研究の美名にかくるる人間界の高尚な魔的行為のいかに憎むべきかが遺憾なく窺われます。これから続く二、三章は現代の読書子に取りてこよなき参考と考えられます。

 早速前回の続きを物語ります。
 吾輩を捕まえた四人の奴等は盛んに吾輩を殴りましたが、その言い草が振るっている-
 「別に汝を殴りたい訳ではないが、こうして見せないと、どちらが強いか判らないからな・・・」
 実を言うと吾輩も以前地獄に居た時にはこれと同じようなことをして来たのだ。で、あんまり口惜しいので一旦は一生懸命反抗してみたのであるが、どうも今度は勝手が違ってさっぱり思うように行かない。別に吾輩の意思が弱くなった訳ではないが、ただ悪事を働かそうとする意思がめっきり弱ったので、これでは喧嘩をするのに甚だ不利益に決まっている。しかし吾輩の為にはこれが却って薬なので、地獄で幅が利くような時代にとても救われる見込みはないに決まっている。
 随分久しい間吾輩は四人の者から虐め抜かれたものだが、漸(ようや)くのことでちょっとの隙間を見つけて逃げ出した。後から四人が追跡して来たものの、悪事を働く意思の弱くなったと反比例に吾輩の逃げる意思が強くなったお蔭で、難なく彼等を置き去りにすることが出来た。
 吾輩はそれから幾週間かに亙りて小石まじりの闇の野原をひた走りに走ったが、その間殆ど人っ子一人にも会わず、万一会った時には努めてこちらで避けて通ることにした。最後に吾輩は一個の大きな建物に突き当たった。段々調べてみるとそれは思いもよらず一の図書館であることが判った。吾輩はこう考えた-
 「自分はどうにかしてこの地獄から脱出するつもりだが、それには今の中に出来るだけ地獄の内幕を調査しておいて、やがてそれを地上の学界に報告したいものである。それには図書館とは有り難い。全く注文通りの代物だ・・・・」
 少々薄気味は悪いが、思い切って建物の内部に入って見ることにした。と、入り口の所で忽ち人相の極度に悪い一人の老人にぶつかった。
 「吾輩は図書館の内部を見せて頂きたいので・・・」
 仕方がないからそう吾輩から切り出した。
 「見せてやるよ」と老人が答えた。「利口な者は皆ここへやって来る。一体地獄で有力者になろうと思えば、誰でもここへ来て勉強せんと駄目じゃ。人間界でもその通りじゃが・・・」
 「全く御説の通りです-ところでお尋ねしますが、その図書館の蔵書は憎悪一方のものばかりですか?それとも他の科目、例えば愛欲ものなども混じっているのですか?」
 「主に憎悪もの、残忍ものばかりじゃが、勿論愛欲ものも少しは混じっている-しかし純粋の愛欲ものを調べようと思えば愛欲の都市の付近に設けている同市専属の図書館に行かにゃならん。お前さんなども其処へ出掛けて行って、も少し勉強したがよかろう。損にはならんぜ・・・・」
 こんなことを喋りながら自分達は図書館の内部に歩み入ったが、それは途方もなく広大なもので、組織は三部門に分類されていた。即ち-
 一、書籍部
 二、思想学部
 三、思想活動部
である。書籍部には憎悪、残忍に関する一切の専門書が網羅されていた。例えば宗教裁判の記録、毒殺の手引書、拷問の史実並びに説明書と云ったようなものである。ただ其処に生体解剖等に関する医書が陳列されているので吾輩は不審を起こした。
 「一体地獄に持って来る書物とそうでない書物との区別は何で決めるのです?」と吾輩は一冊の医書を抜き出して質問した。「例えばこの生体解剖書ですが、こりゃフランスで出版されたものです。この種の書物は全部地獄へ回されるのですか?」
 「イヤそうは限らないよ」と老人が答えた。「地獄に来るのと来ないのとは、その書物の目的並びにそれに伴う影響によりて決まるのじゃよ」