自殺ダメ



 これは1914年9月5日に現れた陸軍士官からの自動書記式通信であります。

 さて我々は暫く右の休憩所で一息入れてから再び前進を続けた。四辺は相変わらず霧の海、その中を右へ右へと取って行くと、間もなく一大都市の灰色の影がチラチラ霧の裡(うち)に見え出した。大絶壁に臨める側には高い城壁が築いてあったが先刻一人の男が第五境へ突き落とされたのは、右の城壁に築いてある塔の一つからなのであった。
 市街の家屋は大部分近代風のもので、ロンドンの郊外の多くに見受けられるように、上品振ってはいるが然りまるきり雅趣に乏しいものであった。が、街路は割合に立派で、掃除もよく行き届いていた。地獄で清潔らしくなるのは此処から始まるのであった。
 ふと吾輩はここに劇場のあることに気が付いた。入ってよいかと守護神に訊ねたところが、よいと云われるので早速入った。但し守護神の方では戸外に待っておられた。幸い入り口の所に一人の男が居たので吾輩は早速それに言葉をかけたが、先方はジロジロ吾輩の顔を見ながら言った。
 「私はまだあなたのことをどなたからも紹介されていませんが・・・・」
 「べらぼうめっ!」吾輩が叫んだ。「こんなところで紹介もへちまもあるもんか!」
 「これこれあなたはとんでもない乱暴な言葉をおききなさる。それでは紳士の体面を傷つけます・・・・」
 先方はいやに取り澄ましている。仕方がないから吾輩も大人しく謝って、どんな芝居がここで興行されているかを訊ねた。
 「演劇は市民の風儀を乱さぬ限りどんなものでも興行しています。但し野卑なもの、不道徳なものは絶対に興行しません。これはひとり演劇に限らず、音楽その他も皆その通りです」
 「イヤ-」と吾輩は叫んだ。「風儀をかれこれやかましく言う所は、地獄の中では此処ばかりだ!」
 相手の男は苦い顔をした-
 「どうもあなたは口の聞き方が乱暴で困ります。この世に地獄などと云うものはありません。あっても此処ではありません」
 「下らんことを仰るな。この界隈は皆地獄の領分の中です。立派に地獄に居るくせに、居ないふりをすることはおよしなさい。吾輩は憚(はばか)りながら地獄の玄人だ。そんな甘い手には乗りませんよ」
 「もしもし」と彼が言った。「あなたは一体どちらの方で、何処からお出でなすったのです?」
 仕方がないから吾輩は簡単に自分の身の上を物語った。すると先方は次第次第に吾輩から遠ざかり、やがて吾輩の言葉を遮って叫んだ-
 「それだけ伺えばもう沢山です。あなたは大ほら吹きか、それとも余程の悪漢です。あなたが何と言ってもここは地獄ではありません。多分私達は地上の何処かに居るでしょう。何れにしても従来私は悪漢と交際したことがないから今更それを始める必要はないです。これで私はあなたに別れますが、ついでに好意上一片の忠言をあなたに呈しておきます-外でもないそれはあなたがここで下らない話を何人にもなさらぬことです。さもないとあなたはあの城壁の塔から下界へ投げ込まれますぞ!」
 そう言って相手の男はプイと何処かへ行ってしまった。
 そこで吾輩は兎も角も劇場に入った。内部では丁度一の喜歌劇を演じていましたが、イヤその下らなさ加減ときたらまさに天下一品、音楽は地獄の他の部分ほど乱調子でもないが、しかし随分貧弱なもので、俗曲中の最劣等なものに属した。脚本の筋などときてはまるきり零、全体が平凡で、陳腐で、無味乾燥で、たった一と幕見てうんざりしてしまった。他の見物人だってやはり弱り切っているらしかったが、それでも彼等は我慢して尻を据えていた。
 其処を出かけてその次の一つ二つ音楽会を覗いてみたが、その下らないことは芝居と同様、とても聴かれたものではなかった。早速又逃げ出して今度は絵画展覧会を覗いてみた。もう大概相場は判っているので、最初から格別の期待もせぬから、従って失望もしなかった。が、子供の落書きにちょっと毛の生えた位の代物ばかりを沢山寄せ集めて悪く気取った建物の内部に仰々しく陳列してあった。