自殺ダメ



 現今、霊魂の存在を肯定する事は、世界の趨勢(すうせい)であり心霊問題に関心をお持ちの方々が増えておりますが、この時期に関係各位のご理解を得て、著作集が刊行される運びとなりました事は、私にとりましてこの上ない喜びでございます。
 父和三郎は、明治七年八月茨城県に生まれ、明治三十二年東京帝国大学英文学科を卒業致しました。入学の年小泉八雲先生が、英文学担当教師として赴任し、卒業まで教えを受けることになりました。この頃美文(美しい語句を用い装飾をつくした擬古文)が流行し、和三郎は馮虚(ひょうきょ)の雅号(兄正恭が赤壁賦からとって命名したもの)を用いて、「帝国文学」「新聲」「明星」等に殆ど毎月作品を発表するようになりました。処女作は、「吹雪」と題する短編で帝国文学に発表されるや大町桂月氏などが、文芸倶楽部の評論欄でしきりに褒め、大学部内でも、かなりの評判になりました。
 それらの内、「吹雪」「谷川の水」「血くもり」は、戸沢姑射、久保随両氏との合著、『白露集』なる文集に収められ、洛陽の紙価を高めたとの事でございます。後年、高須梅渓氏は、美文について記した後、今から見ると、芸術味のあったのは、馮虚の美文のみで、他は云うに足りるものがなかった。(明治大正昭和文学講話)と評しております。
 さて和三郎は、英文科在籍中、翻訳にも筆を染め、雑誌「花の園生」に「賢夫人」を連載したのをはじめ、単行本として、新聲社から『英文評釈』、大日本図書から、アーヴィングの『スケッチブック』、ディッケンズの『クリスマスカロル』、ゴールドスミスの『ヴィカー物語』、英学新報社から、エドワーズ『奇々怪々』を出版しております。このうち特に、『スケッチブック』は、読者から歓迎を受け、大正年代までに、十八版を重ねました。次に、同窓、戸沢姑射氏と共同で、『沙翁全集』を企てまして、これは、我が国における最初のシェクスピアの完訳だとの事でございます。和三郎は「ヴェニスの商人」「御意のまま」「十二夜」を訳しております。またこの時代に成ったものに『英文学史』がございます。米国文学史、英詩の種類及び、韻律法を加え、一千頁を超す大冊で、当時すこぶる好評をもって迎えられ、類書が少なかっただけに、研究者に裨益するところがあったと思われます。
 さて大学を終えてから、海軍教授として、機関学校で英語を講じておりましたが、その間毎年位階もあがり、順風満帆の生活をしておりましたが、以下のような経緯から心霊研究の道に入りました。
(一)先の「吹雪」の発想がある種のインスピレーションによって成ったこと。
(二)恩師、小泉八雲先生が、怪談妖怪等日本の古いものに興味を示され、その影響を受けたと思われること。
(三)外国文学翻訳中、「スケッチブック」「クリスマスカロル」「奇々怪々」等で幽霊譚にふれた事。
(四)三男三郎が原因不明の発熱をおこし、それが、行者の予言通りの日に治療したこと。
(五)妻、多慶子が優れた霊能者であったこと(ずっと後になって判明したことですが)。
 かくして、大正十二年三月、学士会館において心霊科学研究会の発表式を行ないました。当時の各界の名士が多数参加して下さいました。まもなく、関東大震災に遇い、一時大阪に仮事務所を開きましたが、大正十四年再び、東京に事務所をおき、雑誌「心霊と人生」を刊行し、表紙のデザインも二男新樹に担当させました。
 昭和三年ロンドンにおける第三回世界神霊大会に、正規の日本代表として一名のみ選ばれ出席し、かつグロートリアン・ホールにて“近代日本における神霊主義”の題のもとに講演も致しました。英国での収穫はクリユーにおけるホープ氏の心霊写真撮影を自ら確かめたことでした。
 次いで、米国に渡りクランドン邸における物理実験会に加わり、物質化霊の指紋作製現象により、これを採集し持ち帰りました。(当方現存)
 これら欧米の事情をつぶさに体験し、死後個性の存続に確信をもつようになりました。(詳細は欧米心霊行脚録参照)
 帰朝後二男新樹の死にあい、悲しみのうちにも心霊研究家として更に探求を深め、妻多慶子を通じて霊界通信を開始し、これが後の小桜姫物語にもつながりました。この頃我が国にもようやく世界的霊媒が出現し、世間的にも心霊現象が認められるようになりました。
 このように心霊現象の科学的究明を終え、心霊科学とその基礎に立ったスピリチュアリズムの研究と普及に心血を注ぎ、日本思想にもとづいた日本神霊主義を樹立し、その原理と実践の指導に邁進しておりましたが、昭和十二年二月帰幽致しました。
 その後、兄浅野正恭、主幹脇長生先生が会を継承され発展に尽力下さいました。「心霊と人生」誌も五十一巻を数えました。
 本書出版に際しまして心霊研究家佐々木静先生、桑原啓善先生の御指導御協力を、また潮文社の小島正社長の絶大なる御尽力を賜りましたことをここに深く感謝申し上げます。祖父和三郎に尊敬と思慕を捧げる孫浅野修一は、学生時代より二十年間にわたり、明治より昭和に至る著書全般、並びに参考資料を収集提供してくれました。

 昭和六十年四月

                                       秋山美智子(旧姓浅野)



                見えない壁の向こうに[死後の世界]J・S・M・ワード著 浅野和三郎訳の巻末より