自殺ダメ

これは、オーエンの『ヴェールの彼方の生活』の第三巻に書かれていた話である。


 1918年1月18日 金曜日

 そこまで来ると、はるかに遠くの暗闇の中からやって来た者達も加わって、我々に付いてくる者の数は大集団となっていた。いつもなら彼らの間で知らせが行き交うことなど滅多にないことなのですが、この度は我々の噂はよほどの素早さで鉱山中に届いたとみえて、その数は初め何百だったのが今や何千を数える程になっていた。
 今立ち止まっている所は、最初に下りて来た時に隙間から覗き込んだ場所の下に当たる。その位置から振り返っても集団の前の方の者しか見えない。が、私の耳には地下深くの作業場にいた者がなおも狂ったように喚きながら駆けて来る声が聞こえる。やがてボスとその家来達の前を通りかかると急に静かになる。そこで私はまずボスに向かって言って聞かせた。
 「そなたの心の中を覗いてみると、先程口にされた丁寧なお言葉に似つかわしいものが一向に見当たりませんぞ。が、それは今は構わぬことにしよう。こうして天界より訪れる者は哀れみと祝福とを携えて参る。その大きさはその時に応じて異なる。そこで我々としてもそなたを手ぶらで帰らせることにならぬよう、今ここで大切なことを忠告しておくことにする。すなわち、これよりそなたは望み通りにこれまでの生き方を続け、我々は天界へと戻ることになるが、その後の成り行きを十分に心されたい。この者達はそなたのもとを離れて、そなた程には邪悪性の暗闇の濃くない者のもとで仕えることになるが、その後で、どうかこの度の出来事を思い返して、その意味するところをとくと吟味してもらいたい。そして、いずれそなたも、そなたの君主でもあらせられる方の、虚栄も残忍性も存在しない、芳醇な光の国より参った我々に対する無駄な抵抗の末に、ほぞを噛み屈辱を覚えるに至った時に、どうかこうした私の言葉の真意を味わって頂きたい」
 彼は地面に目を落とし黙したまま突っ立っていた。分かったとも分からぬとも言わず、不機嫌な態度の中に、隙あらば襲い掛かろうとしながら、恐ろしさでそれも出来ずにいるようであった。そこで私は今度は群集へ向けてこう語って聞かせた。
 「さて今度は諸君のことであるが、この度の諸君の自発的選択による災難のことは一向に案ずるに足らぬ。諸君はより強き方を選択したのであり、絶対に見捨てられる気遣いは無用である。ひたすらに忠実に従い、足をしっかりと踏まえて付いて来られたい。さすれば程なく自由の身となり、旅の終わりには光り輝く天界の高地へと辿り着くことが出来よう」
 そこで私は少し間を置いた。全体を静寂が覆った。やがてボスが顔を上げて言った。
 「お終いかな?」
 「ここでは以上で留めておこう。この坑道を出て大地へ上がってから、もっと聞き易い場所に集めて、これから先の指示を与えるとしよう」
 「成る程。この暗い道を出てからね。成る程、その方が結構でしょうな」
 皮肉っぽくそう述べている彼の言葉の裏に企みがあることを感じ取った。
 彼は向きを変え、出入り口を通り抜け、家来を引き連れて都市へ向かって進み始めた。我々は脇へ寄って彼らを見送った。目の前を通り過ぎて行く連中の中に私はキャプテンの姿を見つけ、この後の私の計略を耳打ちしておいた。彼は連中と一緒に鉱山を出た。そして我々もその後に続いて進み、ついに荒涼たる大地に出た。
 出てすぐに私は改めて奴隷達を集めて、みんなで手分けして町中の家という家、洞窟という洞窟を回ってこの度のことを話して聞かせ、一緒に行きたい者は正門の広場に集まるように言って聞かせよと命じた。彼らはすぐさま四方へ散って行った。するとボスが我々にこう言った。
 「彼らが回っている間、よろしかったら拙者達と共に御身達を拙宅へご案内いたしたく存ずるが、いかがであろう。御身達をお迎えすれば拙宅の家族も祝福が頂けることになるのであろうからのお」
 「無論そなたも、そしてそなたのご家族にも祝福があるであろう。が、今直ちにという訳には参らぬし、それもそなたが求める通りとは参らぬ」
 そう言ってから我々は彼について行った。やがて都市のド真ん中と思われる所へ来ると、暗闇の中に巨大な石の構築物が見えてきた。住宅というよりは城という方が似つかわしく、城というよりは牢獄という方が似つかわしい感じである。周囲を道路で囲み、丘のようにそびえ立っている。が、いかにも不気味な雰囲気が漂っている。どこもかしこも、そこに住める魂の強烈な暗黒性を反映して、真実、不気味そのものである。住める者がすなわち建造者にほかならないのである。
 中に通され、通路とホールを幾つか通り抜けて応接間へ来た。あまり大きくはない。そこで彼は接待の準備をするので少し待って欲しいと言ってその場を離れた。彼が姿を消すと直ぐに私は仲間達に、彼の悪巧みが見抜けたかどうか尋ねてみた。大半の者は怪訝な顔をしていたが、二、三人だけ、騙されていることに気付いていた者がいた。そこで私は、我々が既に囚われの身となっていること、周りの扉は全部カギが掛けられていることを教えた。すると一人がさっき入って来たドアの所へ行ってみると、やはり固く閉ざされ、外からかんぬきで締められている。その反対側には帝王の間の一つ手前の控えの間に通じるドアがあるが、これも同じくかんぬきで締められていた。
 貴殿はさぞ、少なくとも十四人の内の何人かは、そんな窮地に陥って動転したであろうと思われるであろう。が、こうした使命、それもこの暗黒界の奥地へ赴く者は、長い間の鍛練によって恐怖心というものには既に無縁となっている者、善の絶対的な力を、いかなる悪の力に対しても決して傷付けられることなく、確実にふるうことの出来る者のみが選ばれていることを忘れてはならない。
 さて我々はどうすべきか-それは相談するまでもなく、直ぐに決まったことでした。十五人全員が手を繋ぎ合い、波長を操作することによって我々の通常の状態に戻したのです。それまではこの暗黒界の住民を装って探訪する為に、鈍重な波長に下げていたわけです。精神を統一するとそれが徐々に変化して身体が昇華され、周りの壁を難なく通過して正門前の広場に出て、そこで一団が戻って来るのを待っておりました。
 ボスとはそれきり二度と会うことはありませんでした。我々の想像通り、彼は自分に背を向けた者達の再逮捕を画策していたようです。そして、あの後直ぐに各方面に大軍を派遣して通路を封鎖させ、逃亡せんとする者には容赦ない仕打ちをするように命じておりました。しかし、その後はこれといってお話すべきドラマチックな話はありません。衝突もなく、逮捕されてお慈悲を乞う叫びもなく、光明界からの援軍の派遣もありません。いたって平穏の内に、と言うよりは意気地のない形で終息しました。それは実はこういう次第だったのです。
 例の帝王の間において、彼らは急遽会議を開き、その邸宅の周りに松明を立て、邸内のホールにも明かりを灯して明るくしておいて、ボスが家来達に大演説を打ちました。それから大真面目な態度で控えの間のドアのかんぬきを外し、使いの者が接待の準備が出来たことを告げに我々の(いる筈の)部屋へ来た。ところが我々の姿が見当たらない。その事がボスの面目を丸潰しにする結果となりました。全てはボスの計画と行動のもとに運ばれてきたのであり、それがことごとく裏をかかれたからです。家来達は口々に辛らつな嘲笑の言葉を吐きながらボスのもとを去って行きました。そしてボスは敗軍の将となって、ただ一人、哀れな姿を石の玉座に沈めておりました。
 以上の話からお気付きと思いますが、こうした境涯では悲劇と喜劇とが至る所で繰り返されております。しかし全てはそう思い込んでいるだけの偽りばかりです。全てが唯一絶対の実在と相反することばかりだからです。偽りの支配者が偽りの卑下の態度で臣下から仕えられ、偽りのご機嫌取りに囲まれて、皮肉と侮りのトゲと矢が込められたお追従を無理強いされているのです。

 <原著者ノート>救出された群集はその後“小キリスト”に引き渡され、例のキャプテンを副官としてその鉱山からかなり離れた位置にある広々とした土地に新しい居留地をこしらえることになる。鉱山から救出された奴隷の他に、その暗黒の都市の住民の男女も含まれていた。
 実はこの後そのコロニーに関する通信を受け取っていたのであるが、そのオリジナル草稿を紛失してしまった。ただ、この後(第四巻の)一月二十八日と二月一日の通信の中で部分的な言及がある。