自殺ダメ



 シリア生まれのキリスト教史家で司祭でもあったセオドレットによると、悪名高い暴君達、即ちマクセンティウス、マクシミン、リシニウスが他界した後は、教会に対して猛威をふるった悪逆非道の嵐も収まった。教会への敵意の風もなぎ、静寂が訪れた。
 それを推進したのが、他ならぬコンスタンティヌスである。当時はまだ王子だった。人間によって召されたのではない、人間を通して召されたのでもない、神によって召された、まさしく「神の申し子」として最高の賞賛をもって迎えられた。
 彼は偶像礼拝とそれへの生贄を禁じる法律を制定し、教会の設立を奨励した。その教区の役人の職にはキリスト教信者を任命し、司教には敬虔なる敬意を表すように命じ、侮辱するような行為を働いた者は死刑に処するとまで定めた。
 一方、前皇帝達が破壊した教会を建て直し、しかも、前より広くかつ豪華にした。教会関係の行事は晴れやかに、また賑々しく行なわれ、キリスト教反対派の行事は不人気で没落していった。偶像を祭った寺院は閉鎖され、他方、教会ではしばしば行事が催され、祝祭が行なわれるようになって行った。
 ローマで暴君達が悪逆無道をほしいままにしていた頃、アレクサンドリアはエジプトの首都であることは無論のこと、隣接するテーベやリビアの首都的な役割を果たしていて、その地域で宗教的に最も大きな影響力をもっていた教父はペテロであったが、ローマの圧制はエジプトまで及び、ついに殉教した。
 ペテロの跡を継いでアキラスが司祭となったが、あまり長続きせず、312年にはアレクサンドルが司祭となった。このアレクサンドルはキリスト教神学の大の信奉者で、当時同じアレクサンドリア教会の所属でボーカリスと呼ばれる教区の司祭だったアリウスと対立することになる。
 アリウス神学の中心的存在だったアリウスは厳しい禁欲主義者で、神学についてのみならず人間的にも尊敬を集めていた。宗教史家のソクラテスはアリウス神学について次のように述べている。

 アレクサンドリアのペテロが311年に殉教し、その跡を継いだのはアキラスであったが、更にその跡を継いだのがアレクサンドルで、ある日、司教としての権限のもとに、問題のドグマである《三位一体説》を教会の長老を初めとする全司教の前で説いた。それは、多分、よほど哲学的な内容のものであったものと思われる。
 その出席者の中にアリウスという名の司教がいた。同じ管区に所属しているので当然アレクサンドルの教説は三世紀のサベリウスというリビア人司教の教説、即ち神性を帯びた存在は宇宙に一人しかいないという説に立脚したものとばかり思っていたので、その意外な変節に黙っていられなくなった。
 アリウスはその点を指摘して痛烈に反駁した。彼はこう指摘した-「無始無終の存在である“父”なる存在によって生み出された“子”なる存在には“始まり”がある。となると、その“子”には“存在しなかった時”があることになる。従ってその“子”は“無”から生じたという理屈になる」
 これはまったく新しい発想で、居合わせた若い司教達に斬新な思考の糧を与え、それによって点火された小さな炎が瞬く間に大きく燃え上がることになる。

このアリウスという人物についてエピファニウスはこう描写している。

 目立って背の高い男で、太く長い眉毛をし、その風貌には禁欲生活から生まれる厳しさがあった。衣服にもそれが反映していて、チュニック[膝の上まで届く上着]には袖がなく、ベスト[下着]も普通の半分の長さしかなかった。が、話しぶりは穏やかで、聞く者に好感を与え魅了するものがあった。

 アリウスはコンスタンチノープルで急死している。西暦336年のことで、多分彼の存在を疎ましく思う一派の者によって毒殺されたとされている。彼の死を喜ぶ者が多かったという。
 そもそも《三位一体論》はプラトンに発し、プラトン学派が引き継いで説いてきたもので、哲学的な要素をもつものである。これに引きかえ、アレクサンドルの説はあくまでもキリスト教という一宗教の教説にすぎない。しかも、子が父と同等で、資質も同一であるというのは矛盾している-神の御子はあくまでも創造物であり、こしらえられたものであり、従って存在しなかった時があることになり、それが無始無終の絶対神と同一であるはずがないわけである。
 アリウスはその矛盾を、他の誤った教義と共に、教会だけでなく、あらゆる集会や総会で説き、時には個人の家に出向いて説くこともあった。
 これに手を焼いたアレクサンドルは、諫言(かんげん)と議論でアリウスの間違いを説得しようとしたが収まらず、ついに地位を利用した強権でアリウスを“不敬”のかどで告発し、司教の職から追放するという暴挙に出た。その時の言い訳として引用したのがマタイ伝のイエスの言葉-「もしも右目が罪を犯したならは、その目を抉り出して捨てるがよい」であった。
 コンスタンチノープルの弁護士ソクラテスの記述によると、アレクサンドルはアリウスを罷免(ひめん)した後、まずアレクサンドリアでの集会における司教との交流を禁じ、更に321年には、エジプトとリビアの長老100人が出席する長老会への出席も禁じた。しかし、この集会では賛否両論が噴出して、かえって紛糾した。
 手を焼いたアレクサンドルは全司教へ宛てて書簡を送った。その趣旨は次のようなものであった。

 それゆえ次のことを理解されたい。即ち、我々の教区に最近になって反キリスト的な無法者が現れ、背信的教説を説いていること、それは今後とも予想される反キリスト者の先駆けと見て間違いない、ということである。(中略)敢えて警告申し上げる。ニコメディアのエウセビウス(アリウス論の推進者)からいかなる文書が届けられても無視してほしい。(中略)彼らの説は彼ら自身が勝手にこしらえたものであり、教典とはまったく異なるもので、例えば「神は常に父であったわけではなく、神の言葉は永遠の過去から存在するものではなく、無からこしらえられたものである」と説き、「なぜなら、唯一絶対の神が、それまで存在しなかった父を、無からこしらえた」からだと説くのである。

 訳者注-ここでいう“教典”は勿論聖書のことであるが、本書の主題である325年の「第一回ニケーア公会議」における改ざんが行なわれる前のものである。更に注意すべきことは、「序論」で注記したように、当時の、というよりは、十六世紀までの聖書は、ラテン語とギリシャ語で書かれていて、聖職者も必ずしも正確に読みこなしておらず、まして一般市民は全く読むことが叶えられなかったという事実を認識する必要がある。
 驚くのは、訳者のティンダルだけでなく、印刷屋も、更には英訳本を所持していた者まで処刑されていることである。皮肉なことに、それから一年後から英訳本、いわゆる《欽定訳聖書》が解禁となり、英語圏はもとより世界中に広まり、日本でも翻訳されて一般化するに至った。
 注目すべきことは、ギリシャ語もラテン語も読めたティンダルが、教会で説かれている教説、例えば《三位一体》とか《贖罪》とか《永遠の火刑》といったことが聖書には述べられていないのは一体どういうことかという疑問から発していることである。